研究紹介経済・産業分野Economics and industry

風神佐知子

慶應義塾大学商学部教授

風神佐知子

労働経済学

中京大学経済学部専任講師、准教授、慶應義塾大学商学部准教授を経て、2022年より現職。博士(商学)。 “Linkage, sectoral productivity, and employment spread,” Structural Change and Economic Dynamics, 69, 2024、“Regional Differences in the Epidemic Shock on the Local Labor Market and its Spread,” LABOUR, 36(1), 2021、“Mechanisms to improve labor productivity by performing telework,” Telecommunications Policy, 44(2), 2020、“Local Multipliers, Mobility and Agglomeration Economies," Industrial Relations, 56(3), 2017、『労働経済』(清家篤氏と共著)東洋経済新報社2020、ほか。

「働くこと」の波及効果を追い求めて—労働経済学における実証分析

慶應義塾大学商学部教授 風神佐知子

 私は労働経済学という「働くこと」に関する研究を専門としています。労働経済学は一つの事象を労働の需要と供給面から捉え、なぜそれが起きているのか、何が問題となっているのかを個人の効用最大化や企業の利潤極大化行動、さらには市場の均衡から解き明かします。昨今は皆さんも人手不足や生成AIについてよく耳にすると思います。例えば、一人一人が自分にとって最も良くなるように行動するときに、今よりも多く働くと受け取る年金が減る、あるいは、社会保険料の支払いが生じるといった制度が、個人の行動にどのような影響を与え、その結果、社会全体の労働供給にどのような影響を与えるのか。企業は利潤を多くするために、どの程度、どんな仕事を機械化するのか、その結果、労働者の働き方はどのように変わるのか。労働経済学の中でも、私は波及効果に永らく関心を持っています。人は他者と関わりながら働き、間接的にもさらに他の人へ影響を及ぼすからです。他方、地理的に、あるいはスキル間で波及が止まると、良い効果が社会全体に行きわたらないことも考えられ、問題そのものや要因を明らかにし、解決方法を見つけたいからです。

 以前、起業や新規事業所の開業などで一つの雇用が生まれたときに、レストランや病院、小売業などその地域の需要を主とする部門で、波及的にどの程度雇用が創出されるかを推計しました。これは、はじめに生まれる雇用がイノベーションセクターなどで所得が高いほど、周辺で消費するモノやサービスが多くなり、追加的に生まれる雇用は多くなります。日本経済が人口減少に直面している状況を踏まえ、雇用が波及的に生まれる効果は人々の移動率や経済の集積度に依存していることへ既存研究から分析を拡張しています。また、ボッコーニ大学のガリアルディ講師、カリフォルニア大学バークレー校のモレッティ教授およびエセックス大学のセラフィネッリ准教授が、欧州、アメリカ、アジアの6か国のデータを使って同テーマの国際比較を行っており、その際には日本のデータについて補助しました。

 上述では消費を通じた雇用の波及効果を分析しています。昨年は、今度は生産性の高い部門が生産過程で巡り巡って他の部門にも影響し、労働者の所得や雇用創出にどのような効果をもたらしているのか、都道府県別のデータを使って生産面から波及効果を分析しました。生産過程における乗数効果が1より大きいと、巡り巡って県全体の生産性と労働者の所得水準を引き上げます。各部門の乗数効果を合計した値はいずれの県も2前後であり、生産過程を経て平均生産性が増幅されていました。さらに、1人当たり所得が高い県ほど乗数効果が大きいことが分かりました。これは、各国のデータを用いて分析している既存研究の中で、一人あたり所得が低い国ほど乗数効果が高く、国家間の所得差を縮める作用をしているのと対象的です。さらに、生産性と乗数効果は多くの都道府県で負の関係にあり、つまり、生産性の高い部門は乗数効果が小さく、地域内の他の部門にあまり波及しないことが分かりました。加えて、生産性の高い部門は他の部門よりも生み出す雇用量が少なく、反対に他の部門の雇用創出に大きな影響を与える部門は乗数効果が小さいため、生産過程を通じて上手く増幅されていません。

 上述の研究で消費面の波及効果を分析しているので、昨年の研究の中では、高所得層が好んで支出する財・サービスの生産過程を通じた雇用創出への波及効果も分析しています。例えば、高所得層は教育費を指数関数的に増加させていますが、この部門の乗数効果は小さく、高所得層の消費の増加は、県内の他部門の労働者の所得や雇用創出に十分には波及していきません。よって、単に地域で特化している産業や得意としている産業を強化するだけでなく、そこからの波及にも目を配る必要があると言えるでしょう。

 先に挙げた、消費を通じた雇用の波及効果では、労働者が集積している地域ほど乗数効果は大きいことを見つけました。人々は乗数効果の大きい地域へ、高い賃金の求人がある地域へ移動しそうですが、家族の存在やスキルが無いなど様々な要因で移動できないこともあります。そこで、移動せずに乗数効果の大きい地域の恩恵に預かれそうな働き方としてテレワークについて、コロナ禍前に関心を持ちました。そもそも、働き方を変えるだけで、同じ仕事をしていて生産性は変化するのか、変化するとしたら何が要因かを分析しました。論文が学術雑誌に採択されオンラインで先に公開されてから、紙媒体で発行されるまでに他の学術雑誌と同様に時間差があり、ちょうど発行されたときとコロナ流行が重なり、海外の研究者からも連絡があったのを覚えています。

 この研究では、テレワークは生産性にプラスの効果がありますが、テレワークの時間が長くなりすぎると反対に生産性は減少することが分かりました。在宅勤務とオフィス勤務のハイブリットにするなど、現時点では人々は住む場所からの影響が大きいと言えます。加えて、テレワークの効果が大きいのは(都市部の郊外に住む)通勤時間が長い人です。私の別の研究で「テレワークの実現可能性」の高い求人がある場所をみると、都市部に多いという実態もあります。人々の住む地域ごとに産業構造や労働市場の競争度などは異なり、「働くこと」に影響を及ぼします。

 人々の地理間や部門間の移動に影響を与える要因の一つにスキルがあります。昨年、企業が求める基礎スキル、職能横断的スキル、知識の上昇は、その企業から転出する人の転職後の賃金を下げているか否かを分析しました。日本は「人」採用と言われますが、2000年代のデータで推計すると、日本でもスキルや知識の種類によっては、要求レベルの上昇により転職し、その後に就いた仕事で賃金を下げていること、反対に、要求レベルが上昇している企業に転入すると賃金が上昇するスキルや知識があり、前者と後者でその種別は異なっていました。また、基礎スキルや知識はいずれも地理的移動に影響を与えていませんでしたが、職能横断的スキルは移動を高めており、スキルを他部門で使用できない代わりに働く場所(都道府県)を変えてもそのスキルは利用できると理論通りの結果となりました。他方、基礎スキルや知識は移動を促してはおらず、つまり、勤め先の企業で要求スキルが高まり、転職を余儀なくされる場合に賃金が下がるのも、理論通り同じ場所に留まる故と言えます。社会人のリスキリングが耳目を集めますが、この分析からみると、新興技術だけでなく知識も大切と言えるでしょう。

 労働市場の競争度を考えるには競争経済学の研究から、テレワークなど国境を越えた労働は労働サービスの貿易でもあり、国際経済学の研究から学べることは多くあります。分析手法は異なりますが、労働経済学で扱う事柄は人的資源管理論や経営学にも関わります。商学研究科はこれらの専門家と気軽に議論できる環境にあり、恵まれていると思います。この環境を活かして今後も研究を発展させていきたいと思います。