慶應義塾大学 商学部・商学研究科

新保一成 研究室

開発と環境の経済分析...

2015年度新歓合宿(2015 5/28〜29): 栃木県千本松牧場

3年生の須賀健太君のFacebookページ 慶應義塾大学商学部新保研究室への投稿です。

こんにちは!新保一成研究会3年の須賀です! 5月29、30日と栃木県那須塩原市にある千本松牧場で合宿を行いました。 千本松牧場は、新保先生のご学友である藤本さんが観光事業本部部長を務めていらっしゃる牧場で、 東京ドーム187個分と広大で風光明媚な自然を持つ牧場であります。 過疎化や少子高齢化に直面している那須塩原市を再生するための対策を、今まで学んできた経済学的な視点から考えプレゼンするゼミ活動を行い、 そして同時に千本松牧場の魅力を体験させていただくために今回合宿地として使わせていただきました。

新宿からバスで3時間、そこには都市部では経験できない大自然が広がっていました。 何処までも続く土地や木造のコテージ等といった非日常が出迎えてくれ、高揚感を覚えました。 栃木で採れた山菜をふんだんに使ったうどんと、牧場ならではの濃厚なソフトクリームというなんとも優雅な昼食を頂いた後、早速本題のゼミに入りました。

プレゼンはゼミ員を5班に分けて、各々研究した内容を発表する、という形でした。

1班は那須塩原の現状を、市が出している様々な統計データや資料を基に分析し、 現状の那須塩原には何が足りなく、また何ができるかという事を発表しました。 ここでは地方は都市部並みに賃金が高くならなければ人は来なくなる、という仮定から、 そもそも地方に力を入れる事が本当に効率的なのか、という点で白熱した議論が行われました。

2班は生乳産出額全国4位の牛乳に着目し、それを強みにして那須塩原を酪農モデル都市にする、という内容です。 那須塩原に多数存在する耕作放棄地を牧場にして、アメリカの様に規模の経済性を上昇させ、 またコモディティ化してしまっている生乳ではなく乳製品で勝負することにより、賃金が上がり、参入も増え活性化するのでは、という案でした。

3班は那須塩原の雄大な自然に着目し、田舎特有の虫が多かったり、整備されていない不便さを極力出さず、 ジブリの世界のような美しい「偽りの田舎」を作り観光地化を目指すと同時に、農業体験を法人化してより大規模にするという発表でした。 ここでは参考例として長野県の箕輪町が挙げられていました。

4班は耕作放棄地の現状を分析し、耕作放棄地をリゾートして開発できないか、という事を経済学的に分析した研究発表でした。 その参考案として、広大な土地を利用して巨大な老人ホームを建てるという案が出て、非常に斬新で印象に残りました。

5班は徳島県神山町という、大自然の町に通信インフラを整備してIT企業の誘致に成功し発展を遂げたという例を参考にし、 それを那須塩原でも適用できないか、という事を細かく分析して述べていました。 これは今迄の那須塩原にはない新しい提案で興味深かったです。

調査の過程にあたって各々学ぶことが沢山あり、議論が交わされることで理解も一層深まり、また藤本さんからも刺激になる、 というお言葉をいただけて大変実りあるものになったのではと思います。

3時間にわたる真剣なゼミの後は一転、皆でBBQをしました。 肉に野菜、そして圧倒的な量のお酒が出てきて、楽しくにぎやかな宴会となりました。 終盤では近日誕生日だった上野君へのバースデーサプライズやその余興が行われ、充実した幸せな気持ちで一日を終えました。

翌日はアカデミックなゼミとは一転してアクティビティ。 牧場の朝は早く6:00に起床し、牛の乳搾りや牛舎を見学させていただき、千本松牧場に隠された謎を隠すミステリーツアーやカレー作り、 ニジマス掴みなどまさに夢に描くようなアウトドアを経験させていただき、楽しい時間を過ごしました。

昼食後は千本松牧場バスツアーを藤本さんに行っていただき、八重の桜の舞台となった大木や広大な牧場を面白おかしく案内していただけ、 非常に勉強になりました。 千本松牧場にはテニスコートからアーチェリー、熱気球など大変バラエティ豊かな施設があり、自由時間もあっという間になくなってしまい、 惜しみつつも帰路につきました。

以上の様に大変充実した合宿でした。 都市部での生活を送っていては気づけないような自然に溢れた素晴らしい環境。 しかし、そのような環境も高齢化や過疎化により徐々に衰退してしまうかもしれません。 私達の学ぶ学問がこういった状況を少しでも打破できるように、これからより一層ゼミでの学びを深め、 それを今回の様に具体的な形で実践できるようにしていきたいと思います。

最後に、藤本さん、そして千本松牧場の皆様には大変お世話になりました!ありがとうございました!

2011年度夏合宿(7/27〜7/29): 宮城県石巻市ボランティア活動

Taj多事より転載。

今年度の夏合宿の柱は,3.11東日本大震災で津波の被害を受けた宮城県石巻市でのボランティア活動だ。 きっかけは,小生が震災から3ヶ月が経過した6.11に 浦和むつみジュニア ソフトテニス スポーツ少年団の指導者, 保護者の計4名で石巻市でボランティアをした経験をゼミで話したことにはじまる。 ゼミ生が夏合宿でのボランティアを決めた頃,岩手県で震度5弱の余震があり,被災地へ赴くことへの不安, ご家族の心配もあろうということで,自由参加の夏合宿とした。 最終的に,4年生が1名,3年生が10名による夏合宿となった。 おまけではあるが,小生の小学6年生になる豚児が,どうしてもボランティアを経験したいというので, ゼミ生への水分配給係を役割として連れて行くことにした。

7/4に 石巻市災害ボランティア センター(石巻VC)に団体ボランティア連絡票をFAX送信し, ゼミ生には,

  • 長靴(釘踏み抜き防止の中敷きつき)
  • 厚手のゴム手袋
  • 合羽レインウエア(上下タイプ)
  • マスク,ゴーグル

の準備を指示し,あとは活動内容などについてVCからの連絡待ちである。

被災地のボランティア活動では,現地の交通手段として車が必要だ。小生と4年生の小林君が車を出し, 小生はゼミ生4人を乗せて7/27の午前9:00に桶川を出発,小林君も3年生4人を乗せて国分寺を朝7:30に出発, 3年生のうち2名は電車で現地に向かった。 目指す宿泊先は,天橋立,宮島とともに日本三景として有名な松島の「絶景の館」だ。 小林隊は,首都高で東京を抜けるのに2時間を要したそうで,15:00前に到着。 新保隊は,東北自動車道の栃木県上河内SAで休憩後,ボランティアの活動内容を確認するために石巻VCへ向かう。 石巻VCがある石巻専修大学へは,東北自動車道から仙台南部道路, 仙台東部道路を経由して三陸自動車の石巻河南ICから15分ほどで,桶川から約450kmの道程である。 途中,東北自動車道で仙台手前の菅生SAで昼食をとろうと思っていたが,この近辺で大変な大雨に遭い,休憩を断念。 ラジオは大雨洪水警報,竜巻注意報を警告していて,明日が思いやれる。 石巻河南を降りて間もないところにある新中国料理「独秀園」でごく伝統的な中華定食を食べて,石巻専修大学へ。 ちょうど駐車場に停車したところで,今回リーダーをお願いしている合宿・宴会係の清水(卓)君の携帯へVCからTELがあり, 明日ボランティア活動を行うことと集合時間を確認。 もう少しはやく連絡があれば,ここまで来なくてよかったのにと不平を言いたくなるところ抑えて,松島に向かう。 小林隊に遅れること1時間半の4:30ごろに「絶景の館」に到着。

「絶景の館」とはよく言ったもので,部屋の窓から広がる景色はまさに絶景である。 ボランティアが柱であるとはいってもゼミ合宿であることに違いはないので, 福澤の『学問のすゝめ』(初編)と「文明論之概略』の第4章までを読んでからボランティアに出かけようと考えていた。 しかし,窓からの絶景の誘惑に勝つことはできず,いきなり真っ赤な福浦橋を渡って福浦島を散策・・・。 下の地図でわかるように,松島は,津波で大きな被害に遭った石巻や南三陸町から遠くない。 しかし,この近辺を見渡すかぎり津波の跡形もない。 松島湾は半島に囲まれたような構造になっているからだろうか,この辺りは津波による大きな被害を受けなかったそうである。 ただ,電力や水道などの生活インフラが遮断されていたために,しばらく営業ができなかったそうだ。

福浦島の散策から戻り,夕飯までの1時間ほどで『学問のすゝめ』の初編を音読。 「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らずと云えり」という冒頭文はあまりにも有名だが, 初編を通して読んだゼミ生はほとんどいないようである。 塾生であれば慶應に在籍している間に耳にたこができるほど聞く,「実学」, 「独立」という言葉をこの書物の中にはじめて見いだしたものもいるようだ。 まさに『学問のすゝめ』は,学問による日本人の独立宣言なのである。 専ら勤むべきは,経験や実証に基づき実際に役立つ学問であり,「自由独立の事は人の一身に在るのみあらず, 一国の上にあることなり」と云い,そのためには学問を欠かすことができないと説くのである。 「自由と我儘の界は,他人の妨を為すと為さざるとの間にあり」を読んで,当たり前のことだけど, 実際に身に付いているかどうか自信のないものもいる。 『文明論之概略』には,文明の程度とは個々人の学問の貴さを問題にするのではなく, 個々人が独立していなければならないのはもちろんのことなのだけれども,「人民の分布せる智徳の有様」, すなわち平均こそが問題であることを説く。 『学問のすゝめ』の最後を締めくくる「故に今,我日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり」は, この震災後の日本人こそが考えなければならない,今日的な問題にほかならない。 ボランティア活動を前に読んでおきたかった理由がここにある。

ゼミを終了して,「絶景の館」から車で10分ほどのところにある牛たん炭焼き「利久」で明日への英気を養う。 運転手である小生は,旨そうな牛タンをあてにビールを飲むことができない。 その小生を目の前にしてビールを飲む学生達に,「人を運転手としてこき使っておいて,なんてデリカシーのないやつらだ」 と心の中で呟きつつ,「まぁ,気にしないで飲め」などと嘯く。 豚児は「明朝,車を取りくればいいんじゃないの」なんて気の利いたことを言うが, ここで飲んでしまっては,「自由と我儘の界」のない野蛮の輩になってしまう。

before ボランティア活動当日の朝は,6時半に朝食をとり,7時半に使用前の写真撮影をして「絶景の館」を出発。 天気は,いまひとつで雨がポツポツとあたる。 暑いことを予測して,2リットルのスポーツ飲料とお茶を6本づつ持ってきたが, そんな心配は無用といわんばかりの天気だ。 近くのセブン=イレブンで昼食を調達。 石巻VCのある石巻専修大学へは車で30分ちょっとの距離であるが,通勤時間帯に石巻方面に向かう三陸自動車道の渋滞は有名なようで, この朝も約20kmほどの渋滞にはまってしまった。 清水リーダーがVCに電話をかけ,到着予定時刻の8:30には間に合わないことを告げる。気にしないでよいというVCからの返事に一安心。 結局,VCに到着したのは9時過ぎ。準備しておいた団体用のボランティア受付用紙を渡し,小生以外はボランティア保険の加入手続きを済ませる。 事務所として使用している教室で清水リーダーといっしょに活動場所と内容の説明を受ける。 場所は石巻市北上町の北上川流域の農村で,そこで汚泥の吐き出しや瓦礫の撤去などの仕事になるだろうと説明を受けた。 担当者から現地までの地図と現地担当者の携帯番号を受け取り,車2台で出発する。

sanriku_map

before_weeding 現地までは車で30分ほどの距離で,途中から北上川沿いを走り続ける。 道路は地震の影響をかなり受けたようで,地割れの跡だけでなく,舗装が剥げた箇所もかなりあり, 凸凹に注意を払いながらの運転であった。「ひまわり」という保健医療センターの駐車場に仮説役場が建てられ, そこが集合場所に指定された。近くの畑では福岡からバス1台で来たボランティア団体がすでに活動を始めていた。 現地担当者のマツクマさんが駆けつけてくれ,説明を受ける。一見この地域も大きな被害があったように感じないのであるが, 北上川を伝って襲来した津波で堤防が決壊し,この地域全体はしばらくの間1.5mほどの水に浸っていたそうである。 隣接する集落は壊滅し,23戸の家屋はすべて流され,24名の人が亡くなったと近所に住む沼田さんのおばあちゃんが話してくれた。 われわれの仕事は,沼田さんの隣の畑一面に生えている草を抜くことだ。この草はこの地域には生息していなかった種で, 水が引いたあとの数ヶ月であっという間にこの地域一帯に根付いてしまったそうだ。 福岡からの団体が活動する道路を挟んだ反対側の畑では,草といっしょにヘドロをスコップで根こそぎ掘り起こして整地しながら, それらを道ばたに堆積させている。 しかしわれわれが作業する畑では,地主と連絡がとれないために,整地をしてしまってよいかどうかの判断ができないので, 草を抜くだけにして欲しいということである。 作業をしてみてわかったのだが,ヘドロごと取ってしまう方がよっぽど楽で,草を1本1本腰をかがめて抜く作業は思ったより重労働であった。 作業を始めるころには,朝方の不安定な天気は嘘のようで,すっかり夏の気配である。

weeding rest 6月に来たときのボランティア活動でも同様であったが,仕事の大枠が指示されるだけで, どのように,どのようなペースで作業をするのかの一切は,活動する側に任せられる。 個々人は,何をすべきかを自分で探さねばならないし,誰かがリーダーの役割を果たさねばならないのである。 まさにvoluntaryに,かつ協力して仕事をしなければならないのである。 これは,学生にとって非常によいトレーニングだと思う。 3年生の夏休みともなれば,企業のインターンシップに参加する学生も多いにちがいない。 残念ながら,いま日本の企業が実施しているインターンシップに学生を鍛えるという役割を期待することはできないように思う。 それに対して,被災地でのボランティア活動にはフリーライダーなどあり得ず,まさに個々人の自主性と協調性が試され, 鍛えられる場ではないかと思うのだ。

今回は小生がいたから学生にも遠慮があったのだろう,時間配分などの指示は小生が担当した。 40分の作業を1ラウンドとして15分から20分の休憩。30度ほどに上昇した気温は,草むしりには十分に厳しく, 休憩時間にはみなグッタリだ。持参した飲みものは大いにみなの喉を潤し,水分配給係の豚児もよく働いた。

after_weeding after 2ラウンドの作業をして,1時間ほどの休憩を入れて昼食。駐車場に戻り, 木陰のベンチでコンビニで買ってきたおにぎりを頬張る。 強力に根を張った草をむしるときには,相当に歯を食いしばるらしい。 おにぎりをかじろうとする口が開かないのには驚いた。 せっかく来たのだから1日のお手伝いで帰るのはもったいないと言う学生もいたが, きっと明日には筋肉痛で思うように体が動かないにちがいない。 すでにベンチで舟を漕いでいるものもいる。

午後の途中から,長野から来た20人ほどの団体がわれわれのグループに加わり,作業は一気に加速した。 午後も3ランドをこなし,16時すぎに作業を終えた。 ぼうぼうに生えていた草は見事に抜き取られている。 抜き取った草の種といっしょに津波にのってやってきたヘドロも吐き出さないと, すぐにまた生えてくるのではないかと少々気がかりではある。 このような作業は,仕事の成果が即座に目に見えてわかるのがよい。 研究もそうであるとよいのですが・・・ ただ被災地は,まだまだ目に見えて復興しているわけではない。 研究同様,着実に成果を出すことが求められている。 みなさんヘトヘトの体ではありますが,顔は充実感,達成感で満ちていました。お疲れ様!!

kitagami 沼田さん宅の水道をかりてドロドロになった長靴や手袋を洗い,作業に使ったスコップと一輪車を片付けて帰路につく。 この地域はご老人の割合が高く,学生がこんなにたくさん来ることはないと歓迎していただいた。 帰りも「ひまわり」の前で,ボランティア団体の方2名と沼田さんのおばあちゃんがわれわれの車を手をふって見送ってくれた。

ボランティア団体の人の勧めもあり,隣接する集落を見てから帰ることにした。 そこは,もとの状態を知らなければ,ただ畑が広がっているようにしか見えない。 すべてが流されてしまった跡であることは, 無惨に押しつぶされた自動車の残骸や生活の跡がポツンポツンと置き去りされていることからやっとわかるのだ。 ここから海を見ることはできない。 北上川を逆流してきた津波がこれだけ広範囲の集落を一気に流してしまったという事実に愕然とする。 沼田さんのおばあちゃんが「ほんとに一瞬の出来事だったのよ。家の周りは水浸しで外に出られないし, そうしている間にむこうの集落に住んでいた知り合いはみんな死んじゃった。 地震だけで津波さえ来なきゃ,みなさんにも迷惑かけないで済んだに」と何度も繰り返し話していたことが頭を過る。

「絶景の館」に戻ったのは7時前であった。 温泉につかって疲れを癒すと,凄惨な光景を見た後にもかかわらず,体の渇きと空腹感に耐えらない。 近くの浜の漁師居酒屋「こちら丸特漁業部」にて慰労会。 乾杯の中ジョッキは一気になくなり,旨い魚を堪能しながら,復興支援で東北の地酒をいただいた。 体力の限界まで働いたのでしょう,酒にやっつけられてしまった輩もいたようですが, 他人様に迷惑をかけるほどでもなかったので,ご愛嬌ということで・・・

disaster_building 合宿最終日。小林隊は,小林君が夜にアイスホッケーの練習があるということで,早々に東京に。 新保隊は,南三陸町を視察してから帰京することに。南三陸町は,津波によって甚大な被害を受けた地域の一つだ。 7月30日現在の死者および行方不明者の数は,町の人口の5.7%にあたる986名にいたる。 その中には,防災対策庁舎で高台への避難をひたすら呼び掛け続けた遠藤未希さん(24)がいたことは, 報道を通じてあまりにも有名になった。 土台を残してすべてが流されて瓦礫が散らばる中に鉄骨だけの防災対策庁舎が残されている。 3階建ての庁舎のすべてが流されるなんてことは誰が想像できただろうか。 3階建ての庁舎を襲った津波の高さは10mを超したにちがいない。 その傍らに立つ昭和35年5月24日のチリ地震津波の水位2.4mを示す標識のなんと空しいことか。 それだけの高さの波が押し寄せて飲み込まれる寸前の恐怖とはいかほどのものだったのであろうか。 海岸から高台にある南三陸町災害ボランティアセンター(ベイサイドアリーナ内)に続く道の両側には, 志津川高校と中学校があったことを示す標識が立っているが,そこに学校があったことなど誰も想像ができない。 (志津川高校と中学校は高台にあるそうです。 これは,「慶應義塾・南三陸支援プロジェクト」に参加する商学部の山本先生からの情報です。ありがとうございます。 学校があんなに完璧に流されてしまったとしたら,生徒達に甚大な被害が出ていたでしょう。安心しました・・・) 3階建ての建物の屋上に,津波で流された自動車が放置されている。この光景は6.11いや3.11と変わっていない。 車の中では元気のよかった学生達も,この光景を目の当たりにして言葉を失ったようである。

after_weeding after 南三陸町の光景は,6月に来たときのそれとあまり変わったようには思えない。 合宿の最終日である7月29日には,政府の復興対策本部は東日本大震災の復興基本方針を正式決定した。 今後10年を復興期間とし,財源は示されなかったが,復旧・復興事業の規模はこの10年間で少なくとも23兆円程度で, 当初の5年間を集中復興期間と位置づけて10兆円程度を投入するという。 日本人は,この震災を新たな前進のきっかけにしなければならない。 福島第一原発の事故を契機にしたエネルギー政策論も百家争鳴の状態である。 原発の安全性の議論と同時に気候変動とエネルギー安全保障の視点も欠かせない。 大学生のときにこの大震災を経験した塾生諸君は,だれがどう考えても新たな日本を先導しなければならない。 福澤が説くように,このような時にこそ「多事争論」が必要で,そのために「厚く学を志し,博く事を知る」ことが大切である。

8.21からインドでの調査旅行も計画されている。そこには10年先の生活に何の希望も描けない大量の貧困層が存在する。 日本の人口の4倍ほどの人々がこれまでに電気のある生活を送ったこともなく, 政府がこれらの人々にいつ電気を提供できるのかもわからない。 日本の復興を考えることは,途上国の開発にも何かアディアを与えるに違いない。 この夏に二つの実際を見ることが,これからの学生生活の糧になることを大いに期待したい。

追記

慶應には,慶應義塾が山林を保有する南三陸町にボランティアを派遣する「慶應義塾・南三陸支援プロジェクト」というものがある。 せっかく南三陸町を訪ねたのだから,このプロジェクトのことをもっと知っておけばよかったと反省しきりである。 我が商学部からは山本先生と瀧本先生が,このプロジェクトで活躍されている。 「慶應義塾・南三陸支援プロジェクト」の情報は以下のサイトから。

最後にゼミ員たちの感想です。

  • 松島,石巻,南三陸町を巡る非常に意義深い合宿でした。 惨状を目の当たりにして,問題に直面した時には「一体何から手をつければ良いのだろう」と途方に暮れるのでは無く, 「今出来ることを考え実行しよう」という考え方を持とうと考えました。 (土屋 怜央,商学部3年)
  • 行って良かったと思ってます。筋肉痛が限界を超えましたが、活動後の飯と地酒は美味しかった…! (小堀 英俊,経済学部3年)
  • 未だに腿の裏が若干張っております… ボランティアも打ち上げも楽しかったですが,何より津波で根こそぎ更地にされたエリアの臭いが強烈で印象的でした。 これから被災された方々のために何ができるかを考える一助にしたいものです。 (佐藤 芳広,商学部3年)
  • 被災地の映像はテレビで何度も見たはずなのに,いざ現場に行くと全く初めて見たかのように衝撃的でした。 その被害の凄まじさを肌で感じられた反面,自然や食べ物などそもそも素晴らしいところが沢山ある場所なんだという事にも気づかされました。 時間が経っても被災地の事を忘れる事無く,今後もじっくり復興の手伝いをしなければいけないと感じています。 (大曲 多久,商学部3年)
  • 石巻,南三陸町の惨状を前に,人間は大自然の前にいかに無力かを痛感しました。 私たちに何ができるのかを考えながらこの先被災地の復旧,復興に少しでも力になっていきたいです。 (斎藤 浩彰,商学部3年)
  • 草むしりをして,草で腕に傷がたくさんできてしまった。 痛かったけれど,被災地の人の役に立っていると思うと体が勝手に動きました。 貴重な経験ができました。 (新保 卓樹,桶川市立朝日小学校6年)