Taj 多事
Taj 多事
2009
11月20日
今日の夜からセナさんのGoni Travelのツアーで、日本のお坊様たちと仏陀の歩いた道を1週間かけて旅する。日本からは7名(6名のお坊様と1人の檀家さん)が参加するそうで、6時過ぎに到着するJAL便でデリーに入る。小生とセナさんは一足先に空港近くのHotel Shanti Palaceにチェックイン。そのままセナさんは、空港へお客さんの出向かへ。小生はこの日記を記している。明日の朝は5時20分に出発なので、小生とセナさんも同じホテルに泊まるというわけ。どうやらこれから1週間はセナさんの旅行会社Goni Travelの手伝いも兼ねるということでセナさんと相部屋らしい。
7時45分にみなさんホテルに到着。セナさんは空港でインド式、つまりヒンズー教式出迎えをしたようで、みなさん首から花輪を下げている。小生も一本かけていただいた。
8時10分ロビー集合で夕食ということになり、みなさんは部屋に向かう。小生は、セナさんの助手として金勘定をしたり、夕食の料理注文などセナさんと行動をともにする。夕食のメニュはー、タンドリー・チキン、マライ・ティッカ、バター・チキン、ダール・マクヒニ、バター・ナンそしてタイガー・ビール(シンガポール産)。日本人ばかりなので、スパイシー控えめということで注文。
予約した席の真ん前でライブ演奏が始まってしまったので、大人数の席をライブから離れた場所に作ってもらうのに時間がかかる。準備が整ったところで、まずはビールで乾杯。お坊様達は、日本から持参した焼酎をビールに注いで、すさまじい飲み方だ。たぶん、持ち込みは禁止されているのであろう、ウエイターが訝しげに焼酎の1Lパックを指さして「あれは何ぞ也」と尋ねるので、「坊さんが寝る前に飲む薬だ」とセナさんはったりをかます。ウエイターさん、「坊さん」と聞いただけで恐れ入ってしまった。小生もビールの焼酎割りを勧められたので試してみた。味は悪くないが、まちがって一気飲みでもしようものならあっという間にでき上がってしまうにちがいない。スパイシー控えめのインド料理であったが、みなさん、髪の毛のない頭から汗をダラダラと流し、初日からインド料理と大格闘である。漬物はないのかとの要望にアチャール でお答えすると、口の中は大火事です。
インド料理にほとほと疲れたと見え、10時に解散。明朝は5時起きないといけないので、セナさんと小生も11時に就寝。
11/20のデリー天気予報 最高気温25℃、最低気温12℃、晴れ
11/20のデリーの天気 最高気温24℃、最低気温10℃、平均気温17℃
11/20の東京の天気 最高気温13℃、最低気温5℃、平均気温9℃
11月21日 デリーからラージギルへ
初日は、晩年の仏陀が滞在し説法を行った霊鷲山(りょうじゅうせん)があるラージギル(Rajgir)へ向かう。デリーからビハール州の州都パトナまで飛行機で約1時間。そこから最終日にデリーに夜行列車で戻るまではバスの移動だ。途中ナーランダの仏教大学遺跡を見学して、ラージギルの法華ホテルに2時半ごろにチェックインする予定である。
5時起床。シャワーを浴びて、荷物を整え、5時半に朝食(トースト、茹でポテト、茹でタマゴ)をいただいて、6時にホテルを出発して空港へ向かう。11月26日がムンバイ・テロから1年ということでセキュリティ・チェックがいっそう厳しくなったようだ。時間的には余裕かと思ったが、セキュリティー・チェックを終えてトイレに行ったらもう搭乗のアナウンス。7時5分発 Air India C409便でパトナへ。着陸前の7時45分に機内食でも朝食が。これが、これからの飽食の旅の始まりであった。非菜食( オムレツ、ポテトフライ)を頼んだが、隣のおばさんが食べている菜食の方がよっぽど旨そうに見えたので、次にインドの国内便に乗る機会があったら菜食を頼もう。
およそ1時間のフライトで8時10分Patna着。飛行機の中から見える景色は、木より高いビルが見えないし、滑走路以外は草むらといった空港だ。州都とはいえデリーとの格差は歴然。さて、baggage claimで預け荷物を受取り、みなバスへ向かおうというころ、団長の顔が真っ蒼。団長の荷物が出てこない!積んできた荷物は全て出ているという空港側の話なので、つまり、団長の荷物はデリーで置いてきぼりにされたか、それともどこか別の場所へ旅に出てしまったか、そして最悪のケースは持ち逃げされたかだ。セナさんが連絡すべきところに連絡して、あとは持ち逃げでないことを祈りつつ、バスの旅へ出発。
用意されたバスは、いわゆる大型バスで、合計9名の団体にはかなりの贅沢。10時半にナーランダ(Nalanda)へ向け出発。最初、後ろの方の座席に座ったのだが、バスの性能がたいしてよくないようでひどい揺れ。これでは、とてももたないので、前から2番目の席へ移動した。
荷物が心配な団長さんであるが、この団長さんの噺は落語家も顔負けで、さっそく「知ったか仏陀」シリーズの第一段の高座が始まった。もちろん噺の内容は、その地、その地にそくした仏陀の講義で大変ためになる。でも、随所随所にはさまれる駄洒落がたまらなく面白い。
さて、バスの車窓から見える風景のあまりに貧しさに驚いた。パトナから1時間程のところまでは、道路の両側はゴミの山である。これは、この地域にはゴミの処分機能がないことを意味している。州都パトナに近い地域では、豊かではないにしてもその食生活は都市化され、購入して食べるものが増えているようだ。結果、ゴミの山には自然には帰らないビニールやプラスチックが多く含まれている。たとえ自然に帰るようなもので、廃棄された後に食物連鎖の一部を担うようなものであっても、その量は人口の増加によって自然が吸収できる限界をとっくに超えており、不衛生の源として道路脇に山積している。ゴミの山が消えた辺りからは、非常に貧しい農家計が続く。昨年、ラジャスタン州で見た電気の来ていない村よりも、こちらの村の方が貧しく見える。この地域には農業用の電力が通じていても、これらの農家計は電力を日常の生活で使っているとは思えない。
Patna郊外に散見されるゴミの山。この地域にはゴミ処理場はないようです。
Patnaから1時間も走ったころから見え始める農民の家。Rjasthan州より貧しく見えます。
デリーでも野外排泄をする姿はしょっちゅう目にする。ただし、こどもを除いては立ち小便だけである。この沿道では、おとなが大便をしている姿がやたらと目に付く。これは、この地域の家にはトイレがないこと、公衆トイレもないことを意味している。たまたま、この旅で読んでしまおうと、読み始めたばかりのローズ・ジョージ著『トイレの話しよう 世界の65億人が抱える大問題』を持ってきた。小生にとってこの旅は、仏跡よりも、車窓から見える生活ウオッチングが楽しみな旅になりそうだ。
約2時間でナーランダ着。ここは5世紀から12世紀にかけて仏教大学があった場所であったが、イスラム勢力の進攻により建物や仏像は破壊され、書籍は焼き払われてしまったとのことである。したがって、いまはほんの一部だけが発掘され、遺跡として保存されている。「知ったか仏陀」で団長曰く「インドで仏教が滅びたの一つの原因は、この大学。つまり仏教が仏教学となり、民衆から離れていってしまった」。この地も、夏には45℃近い気温になる。そんな気候の中でも年中1万人の学生が仏教の勉強をしていたそうだ。
Nalandaの仏教大学跡。
14時にナーランダを出発して、今日の宿、ラージギルの法華ホテルへ向かう。ほどなくホテルに到着し昼食。いろいろなカレーをウェイターさんが皿に取り分けてくれ、とくに始めて食べたキャベツのカレーは美味であった。さて、この旅の一つの特徴は、とにかくビールの量の多いこと。この昼食が、その幕開けあった。
4時ごろにホテルを出て、すぐそばの仏陀関係の仏跡に行く。このあたりは仏陀の時代にはマガタ王国と呼ばれ、その首都があったところだといわれている。最初に訪れたのは、王ビンビサーラが骨肉の跡目争いの末に幽閉されたという場所。次に、王ビンビサーラが仏陀教団に寄付したといわれる竹林精舎へ。団長の「知ったか仏陀」によれば、仏陀教団が巨大になる前の仏陀は、この竹林で瞑想などを行い、托鉢をしながら霊鷲山に登り、そこで説法を行ったそうだ。教団が大きくなってからの仏陀は、旅の最後に訪れる平家物語で有名な祇園精舎に滞在することが多くなるが、この二つの精舎の規模や構築物の違いによって仏陀教団の発展の歴史が垣間見られるそうだ。この旅では、お坊さんたちによるお務め(お経をあげること)が何度となく行われた。ここで第一回目のお務め。
お務めをするお坊様たち。真言宗のお坊様です。
宿泊する法華ホテルは、仏跡巡りの日本人のために建てられたホテルといっても過言ではない。日本式の風呂まである。入る前は少々疑わしかったが、お湯の加減もちょうどよく、特に数ヶ月も風呂にご無沙汰の小生にとっては満足のいくものであった。
夕食も日本食。蕎麦、天ぷら(えび、なす、たまねぎ、人参、じゃが芋)、茄子の田楽、煮物(鳥肉、じゃが芋、人参、たまねぎ)、みそ汁、ごはん、つけものと一通りそろっている。ビックリ。
今晩は、一部屋余計に取れたということで、セナさんが一人で日本間に泊まり、小生は団長の弟子であるYさんと相部屋に。このYさん、団長に見込まれて47歳のときに仏門をくぐったそうだ。若いものとの1年間の修業は、大変厳しかったそうだ。セナさんも含めて、ウイスキーで語り合う。
さて、団長さんの荷物ですが、どこを彷徨っていたのかは知らないが、夜11時ごろに無事にホテルに到着。よかったです。
11/21のデリーの天気 最高気温26℃、最低気温9℃、平均気温18℃
11/21のラージギルの天気 最高気温25℃、最低気温9℃、平均気温17℃
11/21の東京の天気 最高気温16℃、最低気温10℃、平均気温13℃
11月22日 霊鷲山からブッダガヤへ
4時45分起床。5時15分に霊鷲山へ出発。霊鷲山の入り口までバスで向かい、頂上までは30分弱歩く。日の出前なので辺りはまだ真っ暗だ。この辺りは追い剥ぎが出ることがあるそうなので、警備の人が一人、二人ついて一緒に登る。頂上には、晩年の仏陀は、竹林精舎から托鉢をしながら同じ道を登り、頂上にある壇上で説法を行ったそうである(「知ったか仏陀」より)。頂上にはヒンズー教の出家僧のような老人が、靴を脱がし、お賽銭を置いて、お祈りをするという一連の指示を与えている。きっとお賽銭は、この老人のポケットに入るにちがいない。なるべく多くの賽銭収入を稼げるように、わざとらしく1万円札が並べられている。お坊さんたちも仏陀には弱いようで千円冊などを取り出してお祈りをしている。この出家僧風の老人は、日本円をどこで換金するのでしょうか?小生は、コインにしようかと思ったが、10ルピー札で勘弁願った。個々人のお祈りが終わったところで、全員でお務め。ときおりピュッと風が吹く山頂で生のお経を聞くのは、なかなか荘厳なものがございます。
霊鷲山頂の仏陀が説法を行ったといわれる壇上。日本のお坊様たちに、賽銭をここに置けと指示するヒンズー教の出家僧風の老人(手前)。彼らにとってはビジネスです。
お務めが終わってまもなく、背後から朝日が昇り始めました。御来光であります。仏陀も眺めたであろう御来光にお坊様たちは大感激で、出家僧風の老人もいままでに見たことがない素晴らしい御来光だと輪を掛けます。きっと賽銭収入に満足したのでしょう。お坊様たちは、御来光に手を合わせます。
さて、下山しようと歩き始めると、そこには数珠やら何やらを両手一杯に携えている商売人が待ち受けています。ずーっと着いてきます。下山したところでチャーイを飲んだのですが、そこでも必死にセールスをします。これは菩提樹の数珠だ、水晶だ、ルビーだなどなど。1個千円だったのが3つで千円になっとところで、何人かのお坊様が降参してお買い上げになりました。団長曰く、ブッダガヤの大菩提寺近辺では、こんな程度ではすまないそうで、心得を今晩伝授していただけるとのことでございます。
法華ホテルに戻って7時15分に朝食。なんとまた日本食。
上段:右 ひじきの煮物、左 卵焼き。下段:右 味付け海苔、梅干し、たくあん、左 ほうれんそうのおひたし。 それに、みそ汁、お粥がつきます。焼き鮭と納豆があれば完璧です。
9時に法華ホテルを出発してブッダガヤへ向かう。3時間半の道のりであるが、沿道に広がる風景にほとんど変化はない。栽培されている作物は、米、麦、サトウキビ、豆、マスタードオイル(日本でいう菜の花)が多い。土や藁でできた家並み、少しでも水が溜まっていれば野外トイレとして使われている。少々大きな町にはゴミの山。サリーをまくって道端で用を足している女性をみかけて、野外排泄については何も語らなかったお坊さんたちもさすがに仰天したようで、「見た?」「見た!」と口々に語る。女性だからといって排泄が必要でないわけがない。ただ、貧しくても恥じらいはあるから、物陰や暗いところで排泄を行うことが多いそうだ。しかし、これがレイプや病気の感染の原因になっているという(『トイレの話をしよう』より)。
途中、軽食屋台のあるところでトイレ休憩。ここではじめてトイレがないという事態に陥る。みなさん、これまでバスの車窓から観てきた風景と同様に畑に向かって放尿を経験する。小生は、デリーで多くの放尿シーンを観て、自分は決してしまいと心に誓っているので我慢(ただこの誓いはすぐに破られることになる)。軽食屋台で見たことのない丸い食べ物が売っていたので、セナさんに聞いてもらったところ、野菜と小麦粉で作った団子だそうだ。一つ注文するとチャンナ・カレーと一緒にターリーで出てきた。美味美味。みんさんにもお勧めしたが遠慮された。まだ旅の始めであるから懸命な判断である。チャーイを一杯飲んでバスに戻る。
12時半にLotus Nikko Hotelへ到着。これからもゆく先々でLotus Nikko Hotelにはお世話になる。それは、セナさんが独立する前はLotusのガイドとして働いていたことと、仏跡ツアーというのは極めて特殊な需要で、Lotus以外にはまともなホテルがないからだ。ただ、仏跡ツアーの需要については事情が急変している。それは経済的にも豊かになったタイの仏教徒と僧侶が大挙してインドの仏跡を巡り始めたのだ。ブッダガヤのあるガヤにはバンコクとの直行便が頻繁に離発着する空港もできたそうだ。われわれのツアーも、これからずっと100人ほどのタイ人と常に同宿であった。
Lotusの食事は朝昼晩とビュッフェ形式。タイからのお客さんが増えたからであろう、かならずお粥とピーナッツ、そして焼きそばが並んでいる。インド料理に辟易としている日本人にも好都合のようだ。
昼食を終えて、大菩提寺(Mahabodhi Temple)のあるブッダガヤへ向かう。 大菩提寺には、出家した35歳のシッダールタが、その木の下で49日間の瞑想の末に覚りを開いたといわれる菩提樹の木がある。これよりシッダールタは仏陀と呼ばれるようになる。
まずは本殿の巨大なお釈迦様の前でお務め。大菩提寺にお参りに来た人たちは、落ちている菩提樹の葉をありがたく持ち帰るのが習わしだという。だからここの菩提樹の葉はビジネスにもなる。それはさておき、この有名な菩提樹であるが、いまは囲いで覆われている。その理由が驚きだ。オーム真理教の麻原彰晃がこの地を訪れ、菩提樹に乗って大騒ぎをしたとかで、それ以降この囲いが設置されたそうである。本当の信者、僧侶にとってはまったく迷惑な話である。囲いの外からお務め。
オーム真理教のおかげで囲いに囲われてしまった菩提樹の前でお務め。
団長の話のとおり、この地のビジネスのやり方はあんまりだ。バスが到着して日本人であることを確認すると、入場券を買い、靴を預ける(この寺は裸足が原則)間に、商売人達が自分の客を決める。そして、ずーっとまとわりつくのである。日本語でガイドのようなことも口走るのであるが、「帰りに私の店に寄ってくださいね」の繰り返しである。とにかく無視を続けたが、気が散って見物どころではないし、ほとほと頭に来たので「買い物する気は1mmもない。落ち着いて見学ができないからあっちに行ってくれ!」と一喝したが、何の効果もない。 なんと、こいつらはバイクに乗ってホテルまで着いてくるのである。
おまけに詐欺まで働く。菩提樹の葉の葉の部分を取り除いて葉脈だけにして、葉の代わりに何か繊維質のもので葉脈を覆っている商品が人気のようだ。Yさんは、50枚を千円で購入したが、バスに戻って数を数えたら40枚しかなかった。佐渡のNさんが1万円で買ったという仏様の骨董品も相当に妖しいし、さらに500ルピーをただ取られたそうである。絶対に財布の中身や手持ちの現金を見せてはいけません。
みなさんには、一応5分間の買い物時間ということにしたのだが、小生は何も買う気はないので、小生にくっついてきた商売人が何を言おうと無視を貫いた。あげくの果てに、セナさんと全然関係ない店でラッシーを飲み始めたものだから、やっと諦めたようだ。
こうしたビジネスが蔓延っている原因の一部は、これまでにここを訪れた日本人(いまは韓国人も)が、商売人のいいなりになってかなりの金を落としてきたことにあるのはまちがいない。しかし、このやり方はあんまりだ。少なくても寺の中に商売人を入れるべきではない。でも、寺を管理する方が商売人から袖の下をもらっているから、排除することができないという構図があるのだろう。
ホテルへ戻る途中、ナイランジャラー川(Niranjara River)とスジャータが仏陀に乳粥を施したといわれているセーナ村(Sena Village)に立ち寄った。もちろん、商売人はバイクで付いてきている。お坊様たちはお金を払って買うものへの執着もすごいのであるが、お坊様たちにとっては、仏跡の煉瓦や川の砂は甲子園の土のような存在で、拾っては大事に持って帰るのだ。 ナイランジャー川ではビデオ撮影に忙しいYさんの砂を落ちていたビニール袋に大量に詰め込んだ。変なものが混じってないといいんだけど・・・
セーナ村の風景。左端には2頭の牛。右端は牛糞を調理燃料として使うために、団子状にして平たく伸ばした牛糞を壁に貼り付けて干しているところ。この旅行で通過した農村のいたるところで見られる風景です。
ホテルに戻って夕食は6時まで2時間ほどの自由時間。お坊様たちは、お清め魔法の水をそれぞれに飲み出すにちがいない。小生は、ホテルに戻る途中に見かけたチベット難民のバザールが気になってしょうがないので、セナさんにちょっと出かけてきますと声をかけるとセナさんも行くという。お坊さん達を残したまま二人でホテルを脱走。
5年前にセナさんがやはり団長率いる別のお坊様達を連れてきたときは、 この辺りには Lotus Hotelしかなくホテルから大菩提寺が見渡せたそうだ。ところがいまや、ホテル、食堂、土産物屋がぎっしりと立ち並んでいる。この変わりようにはセナさんも団長も驚嘆の声。その中で目を引くのが、すこしはずれの方にあるチベットの人たちの地域である。バスから見かけた巨大な難民バザールの回りには、チベットの人たちが経営する小さな掘っ立て小屋のようなレストランが道路沿いに林立している。
ここは仏教発祥の地と言ってよいから、チベット仏教のお坊さんたちがタイのお坊さん以上に大挙して群がっている。ダライ・ラマ率いるチベット仏教は、中国から弾圧を受け、中国政府の対応は世界的にも批判されている。そうした政治的状況のもとで、インド政府としてはチベットの人たちを難民として受け入れざるを得ず、このブッダガヤに居住地域が出来つつあるという感じだ。
ここで見かけるチベット仏教の僧侶の平均年齢は非常に低く、20歳を下回っているにちがいない。僧侶装束の子供の姿がやたらと目に付く。いったい国民の何パーセントが坊さんなのだろうか?経済活動もしないで祈ってばかりいたって、そんな国は滅びてしまうと思うのだけど。お坊様の集団の中では口が裂けてもそんなこと言えません。いちゃったかな??
道すがら、夕食前にもかかわらず栗のような味わいの茹でた果物、エッグロール、そしてチャーイを道端の露店で買い食いした。栗のような果物は、デリーの道端でも見かけるもので、いつも何だろうと思っていたのだけど、今日はセナさんが一緒なのでやっと口にすることができた。とてもおいしいけど、茹でないと食べられないのでは、デリーではなかなか口にするチャンスがない。野菜、鶏肉の炒め物を薄焼きタマゴで巻いてさらにチャパティでくるんだエッグロールも美味。ホテルのバイキングよりは、こういうものの方がはるかに美味いと思うのだけど、短期間の旅行者にはあまり勧められません。チャーイは一杯3ルピー。商売のための設備も要らないし、この地域の店舗の電力はほとんど盗電だ。だから3ルピーでも利益が出るのだろう。
ホテルに戻って、さらに夕食を食べてしまった・・・
11/22のデリーの天気 最高気温27℃、最低気温11℃、平均気温19℃
11/22のブッダガヤの天気 最高気温25℃、最低気温9℃、平均気温17℃
11/22の東京の天気 最高気温10℃、最低気温8℃、平均気温9℃
11月23日 バラナシへ
今日は、覚りを開いた仏陀が始めて説法をした場所サルナートへ向かう。サルナートは、ヒンズー教の聖地バラナシに隣接する。昨年、家族ともにこの地を旅行し、宿泊するホテルもそのときと同じラマダ・ホテルだ。ビハール州とはここブッダガヤでさよならしてバラナシからUP(ウッタル・プラデーシュ)州に入る。
6時起床で、シャワーを浴びる。6時45分に食堂に集合しビュッフェの朝食。この頃から朝からビールが定着する。7時半にはバラナシに向けて出発し、13時半にラマダ・ホテルに到着。勝手知ったるレストランでビュッフェのランチを取る。去年来たときには、ここの食事は今一つという感想であったが、ここまでのホテルに比べるとましな方だ。他の仏跡とは違って、バラナシはインドの観光のメッカでもあるからホテルも様々である。その中でも、ラマダ・ホテルは5つ星でお値段もお高い。ということで、この旅程で唯一、タイの巡礼団と同宿にならなかった。
サルナートでは、インドに仏教を普及させたアショーカ王が立てた石柱の基礎部分を観て、僧院跡の一つでお務め。そして、大きなストゥーパの前でもう一度お務め。インドの仏跡にはストゥーパ(Stupa)と呼ばれる塔(日本の古墳に似た形のものもある)がいたるところにある。もともとは仏陀の遺骨(仏舎利)を納めて崇拝の対象にしたものをストゥーパと呼んだようであるが、必ずしもおうでないもののあるようで、調査はこれからというのが実際のところのようだ。
仏教は、発祥の地インドでは完全に衰退してしまったが、東へ東へと広まり日本へ行き着いた。広まる過程で崇拝の仕方にもいろいろなバリエーションが生まれたようである。インドの仏跡でもチベット、スリランカ、タイ、ミャンマーからの巡礼者を見ることができる。ストゥーパでも僧院跡でもその国の方式でお参りをする。タイからの巡礼団はタイ風のお参りをする。つまり、崇拝の対象に金箔を貼り付ける。タイからの巡礼者は急激に増加しているわけで、このままではインド中の仏跡が金ピカになってしまいそうだ。仏跡を遺跡として保存するのか、それとも崇拝の対象として使用するのか、難しい判断を迫られそうである。
次に考古学博物館を見学する。入り口を入った正面にあるのは、アショーカ王が立てた石柱の頂上にあった背中合わせの4頭のライオンの石像で、綺麗に保存されていて見事なものだ。このライオンはインドの国の象徴として使われ、インドのコインの裏側にもデザインされている。
ホテルに戻る前に2つのお店でショッピング。最初に入ったのは日本人女性が経営する珠数や仏像などを専門に扱うお店で、小生にとってはお坊さんと一緒でなければ決して入らない類いのお店である。日本人には有名なお店らしく、歌舞伎役者の勘九郎が来店したときの写真も飾ってある。小生はお坊様方が熱心にお買い物するのを眺めながら、耳に届く値段に目玉をきょろきょろとさせておりました。
2件目のお店はシルクの製造販売のお店。去年も同じような店で奥様が大枚をはたいたと記憶しております。例のごとく最初に実演を見学する。店舗に入る間際に機織り職人が小生に金の糸を巻いたものを3,4個手渡したので、そばにいる人たちに配る。礼を言って先を急ごうとすると100ルピーだと。またやられた。販売の仕方はどこも同じで、6畳ほどの台座に店員が説明をしながら商品を広げて、気にいったものがあれば各自キープしておく。奥様にショール、スカーフを各1枚と男女兼用のマフラーを2本で本旅行最大の出費をいたしました。
ホテルに戻ってビュッフェの夕食。団長の弟子であるYさんは、この巡礼の会計担当でもある。ということで、精算のために毎晩の夕食後にセナさんとミーティングをする。ミーティングには必ずお酒と食糧が付き物で、ちびちびとやりながらお仕事をする。明朝のガンジス川のボート見物に話が及んだとき、Yさん「沐浴はどこでするの?」、セナさん「沐浴はしないよ。ボートから見物するだけだよ」、Yさん「えっ?明日の朝は沐浴するんじゃないんの?海パン持ってきちゃったよ」、セナさん「したいんだったら何とかするよ」、Yさん「新保さんもするよね?」、小生「えっ、海パンなんて持ってきてないよ」、セナさん「パンツでだいじょぶよ」、小生目が点・・・
11/23のデリーの天気 最高気温25℃、最低気温10℃、平均気温18℃
11/23のバラナシの天気 最高気温25℃、最低気温12℃、平均気温18℃
11/23の東京の天気 最高気温14℃、最低気温8℃、平均気温11℃
11月24日 ガンジス川で・・・、クシナガルへ
さて問題の朝。まさかに備えて履き古しのパンツとホテルのバスタオルを袋に詰めてバスに乗り込む。バスを降りて10分ほど歩き、ダシャーシュワメード・ガードでボートに乗り込む。なんと舟の漕ぎ手は去年と同じ。そして、去年と同じように花に灯をともしたものを持った若者が乗り込んできて一人に一つずつ手渡す。これをガンガーに流してお祈りをする。これもパック料金に含まれているのかと思いきや、去年は一人二つで合計10個を流し、流した後に1つ50ルピーで計500ルピー請求された。今年は合計9個を流したのだが、セナさんが100ルピー手渡したら、若者は黙って去って行った。そういうことなのね・・・
出発した舟はしばらくしてまた岸に戻る。セナさん「ここで沐浴しまーす」、みなさん「だれが?」、Yさん「わたしと新保さん」。いよいよ現実になってしまったようだ。Yさんはすでにズボンの下に海パンを履いていて準備万端だ。小生は、ガートで履き古しのパンツいっちょになる。寒い・・・Yさんは、すでに川に浸かって「バンバンボーレ!」と気勢をあげている。Yさん、「川の中は冷たくないよ」と言うのだが、すでに震え気味の小生には、覚悟を決めて川に入って川の中で必死に体を動かすも寒くてしょうがない。頭まで川に浸かるのが習わしなので、「とっとと潜りましょう」とYさんに声をかけて一斉に潜る。川の中で目を開けるという暴挙に出てみたが、目の前のYさんさえよく見えない。おまけに水面から飛び出るときに勢いでちょっと水を飲んじまった。あー、きっと大腸菌や糞尿やいろんなものが体内へと入り込み大変なことになるにちがいない。あとは神に祈るしかない・・・沐浴後の体はポカポカで気分が良い。ヒンズー教徒のみなさんは、こういう状態になれることを神様の御利益と信じて、毎日の沐浴をするのではないだろうかと思ってしまう。
ボートが川上の火葬場で折り返すと、川のセールスマン達がそれぞれの舟で押し寄せる。まずは、ガンジスの水を入れる壺。大小様々で一番小さいもので2つで200ルピー。沐浴記念ということで、これに水を詰めてもらって購入。この水は、いつまでこの壺の中にいるのでしょうか。次は、バラナシを紹介するビデオCD。川のセールスマン達は、とにかく何か買ってやらないとなかなか引き下がらない。なので値段が1枚250ルピーから200ルピーに下がったところで買うことに決めたのだが、どうせ買うなら、好きな音楽やシタールなどインド音楽の方がよい。でも、そういうものはコンノートで買ったほうがよいというセナさんのアドバイスで(ごもっとも)、バラナシ・ビデオCDを購入。その場で空CDでないことは確認したが、通しで観るまではドキドキものだ。その他、ガンジスで捕れたと思われる巨大なドジョウのような魚を川に戻すために魚を買うという、少々わけのわからぬセールスマン。きっとヒンズー教の人たちには神聖な行為なのだろう。そこで魚の捕獲代金を支払えというわけか。これには誰も手をつけなかった。
舟は川下の火葬場で再び折り返して、ダシャーシュワメード・ガードへ戻る。バスへ戻る途中のチャーイ屋で一服。ここのチャーイの煎れ方はデリーの町中でみかけるものとは違っている。まず、ガラスのコップを熱湯消毒する。つぎに熱いミルクをコップの半分ほどまで注ぐ。最後に、茶葉を入れた漉し器に熱湯を注いで濃厚な紅茶をコップにつぎ足して、チャチャッと混ぜてできあがり。これまでホテル出がらしのようなお茶しか飲めなかったので、このチャーイのこくと美味みは一入であった。
ホテルに戻り今朝はいつもとは別のレストランでビュッフェの朝食を取り、8時ごろホテルを出発して仏陀が入滅したといわれるクシナガルに向かう。ここから最後までは、ほとんどの時間をバスの上で過ごすことになる。
UP州の旅行施設で昼食を取る。あまり期待していなかったが、とてつもなく期待はずれというわけでもなかった。というのも、これまでの(そしてこれからも続くのだが)ホテルの食事として期待するほどものをいただけていないから、そう思うのだろう。なんとビールもあった。ただ、本旅団がストック4本を飲み尽くしてしまったが。
クシナガルに着いたときには日も暮れて、観光ではなくてお参りは明朝に。(続く)
知ったか仏陀、そしてガンジス川で・・・
09/11/29