01/12/13 12:20

ビクトリア期の経済学者

正一くん

ヴィクトリア朝に入りさらに世の中は複雑化の様相を見せた。それと同じようにして経済学もまた、複雑化の傾向を強めた。

 エッジワースとワルラスは世の中の仕組みを徹底的に数学によって表現しようとしたと私は理解している。これらの数理経済学者達による社会メカニズムの解明はその社会に住む人間の人間性を排除し、一つの機械として見なすものである。こういった数学的な理論がこの時代には行われた。この時代における偉大な経済学者達の一つの特徴である。私はこういった数学的な理論は大好きである。(理解できているかは別として)そして私がこういった理論に関して思うことは、やろうと思えばかなりの近似値を求めることができるということだ。そしてもう一つの特徴はその、人間を機械として見ているために、変化・現象といった「動き」を見ることができないと思っている。つまり、その一つの現象はある程度求められるが、その現象がどうなるかは分かりかねるということだ。

 複雑なヴィクトリア朝の社会ではその静的なアプローチの他に動的なアプローチも当然あった。それがマーシャルである。彼は「時間の要素」を強調した。彼の理論は動きを考えに入れたのである。しかしまだそれは抽象的な時間であった。この経済が激動した時代にはその他にも様々な面白い思想家が誕生した。しかし、私は経済学では最初に口述した2人の存在感が、よく見かけるせいか、大きいように感じられる。ある意味、この時代の経済学はおおきな革命だっただろう。数学で表現をすることができたというのは、例えそれが、静的であろうとも、完全ではなかったにしろ、非常に有用なものであった。その理由は、現象のメカニズムをよりコンパクトにかつ具体的に捕らえることができるからである。今でも経済学では、数学的な見方が良く使われるのはそのためであると思う。そのため、彼らの役割は相当大きかったと私は思っている。そして、今日では、動的なものを捉えるものとして、複雑系経済学というものまで現れた。これは、「予測」という動的なものを視野に入れている。私は、このヴィクトリア朝の経済学者たちの作り出した、数字による経済の分析が発展し、ついには数字による「予測」という段階に達したと思っている。彼らの存在意義は数値化によって経済学の流れを変えたことであると思う。

ゼミ代くん

学者宜しく世論の喧しきを憚らず、異端妄説の譏を恐るることなく、 勇を振ひて我が思う所の説を吐く可し 〜ヴィクトリア朝の世界と経済学の異端者たち〜

 「昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり」と福澤先生は言うが、この章に登場する話はまさにその言葉が当てはまる。昔の変人や大ほら吹きたちの考えを今の人々が大まじめに勉強しているところが面白い。
 まず、エッジワースである。彼は「多数の生きた損益計算者が、それぞれ自らの心理計算機の快楽を最大化するように生活をせわしげに調整する」という一般的な哲学に数学的正確さを付け加えた。
 エッジワースのおかげで僕はこのゼミで自虐的にならざるを得なくなることになるのだが、その辺は問わないことにしておこう(笑)。この変人(当時)のおかげで僕のプライドはズタボロだ!この野郎、どうしてくれるんだ!……取り乱しました(笑)。 まあ、数学を導入して経済学をより確かなものとしたのは彼の功績だろう。

 ヘンリージョージは貧困の原因は地代の不公正にあるとし、土地に対する税、すなわち地代を全て吸収する税を主張した。 原因を見つけ、それを解決すべくダイレクトなアプローチをかけるというところはすばらしい。「全てを吸収する」なんてスバッと言える人はなかなかいないだろう。

 ホブソンのところで印象に残っているのは帝国主義に関する叙述である。この話の中で一番のお気に入りのところだ。
 資本主義は解決不能な内的困難(資本主義的不均等分配)に直面し、そして純然たる征服欲からではなく、自らの経済的生存を確かなものとするために帝国主義に向けられてしまうと述べている。
 征服欲によって帝国主義が発生したのではないところをぜひ強調しておきたい。現在、日本の過去について悪魔の行いのように言っている人もあるが、彼の説明を借りれば、なんのことはない、日本人の経済的生存を確かなものにするためにアジアに進出していったのだ(森総理や亀井自民党政調会長の言葉ではない)。
 帝国主義も社会保障も、資本主義的不均等分配という同じ親から生まれてきたものなのだ。
 彼の説明を借りれば、うちのじいさんの弟たちは天皇制の犠牲者ではなく、資本主義的不均等分配の犠牲者ということになる。
 ヘンリージョージとホブソンの共通していることは「当たり前」と思われるに関する問題意識である(だから異端と呼ばれるのだろうが)。金持ちと貧乏人がいるのは当たり前、帝国主義はよくわからないけど出て来ちゃったんだから当たり前、と済ませたらそこから先は進まない。
 地代を全て吸収する税のアイディアにしても、帝国主義発生の原因に関する考察にしても、「なぜ?」と思うから出てくると思うのだ。まさに「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し」だ。
 バスティアは大まじめなのか、人を小馬鹿にしているのかわからない。例のロウソクと太陽の話だ。しかし、これが説得力を持つのだから面白い。また、均衡についても「個人的利益に基づく自動調整メカニズムが、それ自体が作り上げた自動的というにはほど遠い政治構造によっていつも悪用されているときにそれを信用することができるのか?」と疑っている。
 マルクスではないが「全てを疑え」といったところである。
 マンデビルは個人的な不道徳は結果として公共の福祉に寄与し、一方、個人的な正直さは社会的な重荷になるかもしれないと述べている。ウソみたいな話である。しかし、自分の経験を思い出してみると納得がいく。
 就職活動を通して、何遍も笑顔でウソをついてきた。就職活動の初めの頃は良心の呵責にさいなまれたが、笑顔でウソをつくような個人的な不道徳によってビジネスは回っており、それが結果として公共の福祉に寄与しているのだ。こんなことを堂々と述べてしまうのだから面白い。
 とまあ、変人たちばかり登場した。ヴェブレンを読んだときと同じような興奮を覚えた。
 来年の春から僕は銀行員になって、上司の言うことを無批判に聞いたり、取引先の言うことにあわせたりと、正統派たることを求められるかもしれないが、多数の正統より少数の異端になって、周りの人より歴史に評価されたいものだ。
 うん?ちょっと待て。それとも疑問を持ってもそのままにしておくというのは個人的な不道徳なのか?異端妄説を吐くということは個人的な正直さなのか?
 ということで、せっかくこの話を読んだのだから、疑問形で終わっておこう。

カサポン

この時代に経済学が視野を広く持ち社会全体を観察しようというものでなくなってしまったのは実に寂しいものだ。経済学が教授連の特殊専門分野になってしまっては意味がない。それをどうにか(というよりは彼らが持つ人間性故に自然と)経済学で実社会を映し出そうとしたヴィクトリア朝の経済学の異端児達は実に面白味溢れる人々である。 まず、エッジワース。彼は大学人として有名な人だったが、「エッジワース・ボックスの人か」としか分からなかった私は、本を読み結構変わった人だったのかということを知った。「すべての人間は快楽機械である」という本当に経済学者かという仮定をたてて、なんでも数学的正確さを付加えていった。なるほど、あのエッジワース・ボックスの背後にそんな仮定が潜んでいたとは。 次にヘンリー・ジョージ。彼はまさに異端だ。大学の講義で「政治経済学を学ぶには、自分で考えさえすれば、教科書も教師も必要ない」と言ってしまうとは驚くことだが、彼は実に優れた社会の観察者であったからこそそんな大それたことが言えたのではないだろうか。彼にもう少し大学人としての心構えがあったなら、と惜しく感じる。しかし、それはどうあれ、彼の考える力というものは非常に素晴らしく、ニューヨーク市長選でセオドア・ルーズベルトを破ったというのだから凄いものだ。 そして、ホブソン。凄い結論を出した。「貯蓄は繁栄を徐々にむしばむに違いない」と。消費を奨励する今の日本の景気対策に似ている。しかしその主張は、貯蓄という行為はより多くの人を仕事につかせるために使われる資本基金に加わるとされていた当時の考えに全くもって反し、それ故にホブソンは追放者になった。不幸中の幸い、アフリカで自分の主張と一致する状況を発見し、帝国主義発生の由来まで考え付いてしまうとは、実に素晴らしい。やはり、生きる力と考える力を持つ者がすることは普通じゃないなと感心してしまう。 彼ら異端の言葉に耳を傾けていれば、今の社会はどんなものになっていただろうか。これから変わった意見を持つ人が現れても先ずは耳を傾けようと思う。まさに「多事争論の世を作ろう」だ。

やべっち

経済学の異端者たちの中で、私はなぜかホブソンという名を聞いたことがありました。そしてよくよく調べてみると、大学受験用の世界史年表の中に彼の名を発見しました。そこには「ホブソン−帝国主義(1902)−資本輸出」とだけ書いてあって、私はかすかにそれを覚えていたのでしょう。「内容をあまり理解できていなかったにもかかわらず、言葉だけをよく覚えていたな」とあきれつつ、同時に「内容を理解した方がおもしろいな」と改めて思いました。 ホブソンの理論に従えば、現代の所得格差拡大傾向は、またしても暴力と闘争を引き起こすのであろうか。戦前と違って、社会保障制度が整備されているから、大戦争を引き起こすまでには至らないであろう。では何が起こるのであろうか。現在広まりつつある、能力主義・成果主義に基づく報酬体系は、確実に少数の大金持ちを生み出すであろう。この投資家の貯蓄は投資にまわる。はたして、どこに投資をするのであろうか。先進国に投資しすぎることはバブルを引き起こすであろう。つまり、消費が投資に追いついてこない。バブルを回避するためには、大金持ちが発展途上国・低開発国というリスクの大きな所に投資することが必要であろう。問題は、この投資家たちがリスク愛好者であるかどうか、という点にある。もし、リスク回避者であるならば、バブルが再び起こるかもしれない。こう考えると、マンデビルの「個人的な不道徳は結果として公共の福祉に寄与し、一方、個人的な正直さは社会的な重荷になる」という考えに私は共感を覚える。 では、大金持ちになれない人々はどうなるのであろうか。社会保障制度の恩恵を受ければ、19世紀のような貧困状態におちいることはないであろう。そして、わずかな貯蓄を投資にまわすことができるかもしれない。その点、投資信託は画期的である。さらに、投資先として、比較的リスクの小さな所が保たれていれば、リスク回避者でも投資行動を起こすのではないかと思う。この投資行動によって、おそらく所得格差を縮小させることができるであろう。

シュンペータ        

正一くん

さて、本当に素晴らしい世界とは何だろうか?その答えはいくつもあるだろう。その中に、いわゆる貴族政治という答えを上げる人がいるだろう。シュンペーターもその一人である。もちろん、彼の言う貴族政治とはただの階級社会とは意味が異なる。シュンペーターは能力による階級分けということである。

 さて、ちょっとばかり階級社会を考えてみよう。近代国家成立から、人々の平等が言われてきた。例えば選挙制度は良い例だと思う。選挙権の拡大は、人々が平等を求めていった結果によるものである。しかし、現代の政治においてこのことが本当に良い結果、すなわち良い社会をもたらしているとは限らない。それは選挙民の無知が影響している。選挙権を拡大していったことによって、「平等」という大義が達成され、理想のものに近づきつつあったが、そのことは決して現実世界での理想的な政治制度ではないということだ。政治に対する情報というものを選挙民は得てはいない。その情報を確かに握っているのは、一部の知識階級であるといえる。それ以外の人たちは、本当に意味のある投票をしてはいない。正しい情報のない選挙民の投票は、選挙の意味を成さないと考えられる。もし、現実に選挙を、政治情報を正しく反映されるようにするのなら、知識階級だけのものにしていくべきである。

 シュンペーターは今までの言われていたような経済的証明理論とは異なるが、素晴らしい理論を作り出した。そして、その理論は私が疑問に思っていた「なぜ共産主義・社会主義が資本主義のように主流になり得なかったのか?」ということに対して非常に納得できる形での「現在の資本主義主流」を証明してくれた。彼のいう「エリート達が牽引役となる社会主義は資本主義に似通っている。」はまさに私が納得できる形での資本主義主流の時代を説明するものであった。

 彼は理想的な自由主義・平等主義が唱えられていた時代の中で一つ合理的な社会のヴィジョンを持っていた。その素晴らしい社会は現在でもかなえられないであろうが、もしかしたら、最も効率的な社会かも知れない。それが知識による階級社会である。
社長 シュンペンターさんは、かのマルクスと同じように、「資本主義制度は生き延びることができず、その結果、社会主義によって交代させられる」という命題を打ちたてた人である。しかし、マルクスと違う点がある。それは、マルクスにとっては、資本主義体制の崩壊は望ましい目標であったが、これに対してシュンペンターは、社会主義者の擁護者ではなかったことである。彼は、「ある予見をなすことは、決して予言した出来事の進行を願っていることを意味するものではない。ある医者が自分の患者はもうすぐ死ぬだろうと予言したとしても、それはなにも医者がそうなるのを願っていることを意味しない。社会主義を憎悪するか、あるいは冷たい批判的態度でそれを眺めながら、なおかつ社会主義の到来を予測することもできる」と語っている。
しかし、私はどちらかというとこの手のタイプの経済学者は好みではない。信憑性の高い占い師を演じるのもいいが、自分にとって望ましくない未来だと自分が考えるのなら、思いっきりあがけばいい。社会主義がお気にめさないのであれば、社会主義の欠点を炙り出してみたり、資本主義の修正案を模索して提示し、なるべく国家の体制が社会主義に移行しないような提言を行えばいい。事実、有名な経済学者の茶番の一言が世の中を動かし、変えていくのである。
だが、彼が経済史の分析を非常に重視している事に関しては敬意を表したい。彼は、「統計学、経済理論、経済史の3つのうち、1つしか研究できないが、そのなかのどれを選択するかは私の自由であると告げられたとすれば、私は経済史を選択するだろう」と述べているのだ。数学の勉強を晩年まで欠かさなかったシュンペンターがそう言ったのだ!彼は、経済分析における基本的誤謬の大多数は、経済学者が具備していない用具の欠陥に基づくよりも、まさに歴史的経験の欠如に基づくことがはるかに多いという事実を悟っていた。
…経済史を十分に学んだ彼だから、自分にとって望ましい政策の欠点もわかりすぎてしまったのかもしれない。
ゼミ代くん エリートが世の中を動かす 〜シュンペーター〜

 「皆さん、君たちは不況に悩まされているが、心配することはない。資本主義にとって、不況は適当なお湿りなのです。」「政府支出は恒常的な補助エンジンではない。」
 上の二つの言葉は現代に生きる斜に構えたエコノミストや財政再建論者のものではない。100年ほど前に生まれた経済学者のものである。アンファン・テリーブル、ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター。
 彼は24歳の時に経済学の理論化の特質に関する書物を処女出版し、27歳の時「経済発展の理論」を出版して、この書物はただちに傑作として認められた。ケインズと言い、彼と言い、人類は確実にバカになっているのかもしれない。この「経済発展の理論」でシュンペーターは、資本主義システムにおける利潤の源泉として企業家(起業家?)とその革新活動をあげた。
 現在、世界中とにかく起業ブームである。最近のIT関連事業における起業はもちろんのこと、学生にも起業家になりたいとかいうヤツがいるし、学生ベンチャーやら社内ベンチャーもあるし、起業セミナーも開かれるし、とにかく起業とかベンチャーとか言っていればよいらしい。

 話が少しそれた。起業ブームはどうこうという話ではない。このような企業家の革新活動が資本主義には必要不可欠なのだ。

 しかし、企業家は利潤の生産者であっても利潤の受取人ではない。しかも社会的には尊敬されない。こんな割りの合わない仕事をする理由をシュンペーターは「第一に私的な帝国を建設しようとする夢想と意志。次に征服への意志。最後に創造の喜び」と分析している。「建設者」、「企業家が富を生む」。最近読んだ「富のピラミッド」にも同じようなことが書いてあった。今日の有名な経済学者の独自の考えと思っているものもよくよく調べてみると古典に行き着くようだ。そういえば、ある経営学者もイノベーションのこと言っていたなぁ。そして、革新がその産業全体に普及し、銀行借入と投資支出の続発が好況を引き起こすが、革新の普及こそが差別的な優位性を取り除いてしまうとのことである。ということは、いま、はやされている起業家たちも革新が普及した段階でお払い箱ということらしい。
 さて、「資本主義の本質は、非資本家エリートに担われた社会の活性化にある」と本書にはある。シュンペーターは歴史における非凡な才能を持った少数の個人の重要性を信じていたようだ。
 「歴史、すなわち変化と発展の物語としての『歴史』とは、社会における不活発な大衆に対してエリートが与える影響の物語である。社会環境が異なれば、影響を及ぼすのに必要とされる資質も変わるだろう。例えば軍事的才能は封建社会で花開き、経済的才能は市場社会に居場所がある、という具合に。」
 僕は不活発な大衆で終わってしまうのだろうか。

カサポン シュンペーターのヴィジョン この本に登場する経済学者の洞察力の凄さにいつも驚かされるが、この章の登場者シュンペーターは私のことを驚かしてくれたことはもちろん、ある部分では言いたいことを代弁してくれたようで非常にスッキリした。 イノベーションが利潤を生み、簡単にそれに追随していくものによってイノベーションが普及し、銀行借入れと投資によって好況が引き起こされる。しかし、そこでイノベーション創始者の競争優位性がなくなり、イノベーションはもはや日常業務化し利益は喪失してしまう。景気循環をこのように説明し、多くの人々を悩ませる不況を「お湿り」と言ってしまう。また、イノベーションにより利潤を生産する企業家でも彼自身は利潤の受取人ではなく、特殊なリーダーシップを持っているだけであり、経済的に不安定な立場にあるとかなり厳しい意見を言っている。ああ、今のベンチャーブームの中にいる多くの起業家達もシュンペーターの予想する運命をたどるのであろうか。シュンペーターが長期的な視点でものを語っていることを考えれば納得がいく気がする。 何よりもエリートに関する考え方は非常に納得のいく個所であった。社会主義が生存するといったことと資本主義は生き延びないといったことの意味がこの個所を読んで理解できた。つまり、賢い人が一人でも頂点に立ちシステムを管理すれば上手くいくというわけだ。「そのために階級はいかなる社会組織にとっても用いるのが合理的であるような国家財産なのだ」。なるほど。「社会主義システムを指導するに必要な技能はブルジョア・エリートがその頂点に自然な位置を見出すような進歩した資本主義システムを運営するのに必要とされる技術に十二分に似通っている」。なるほど、なるほど。そして、エリートとは「知性と意志」によって選ばれる、才能の貴族制度というわけだから、なんとも安心の置けるものである。世襲政治とは全くもって違うわけだ。 それにしても、何十年も前の思想がどうして今の世に役立つように感じるのか。彼らの先見性は素晴らしいと感動せざるを得ない。
やべっち シュンペーターは難解でした。いつものように『世俗の思想家たち』を読んでみたがあまりにピンとこなかったので、『私は、経済学をどう読んできたか』も読んでみた。読み比べて、私には後者の方が読みやすい、ということが分かった。なぜなら、原文とコメントがバランスよく載っていて、全体の流れが把握しやすかったからだ。私のような初学者は、後者を読んでから前者を読むと理解が深まると思う。 なぜ難しいと感じたのだろうか。ケインズやマルクスとの対比に、気を取られ過ぎたからだろうか。あるいは、企業家の知恵が資本主義の原動力であると主張した人だ、という先入観が私にあったからであろうか。「資本主義は生き延びうるか。私はできるとは思わない」や「社会主義は作用しうるか。もちろん、作用する」という発言が、なぜ彼の口から出るのかはじめは理解できなかった。『資本主義、社会主義、民主主義』という本は、資本主義を礼賛し、社会主義を冷笑する内容だと思っていた。この解釈は、ある意味、当たっていたかもしれないが、反省すべき点も多々ある。 ここで、私の理解を修正してみよう。シュンペーターは、資本主義であろうと社会主義であろうと、一部のエリート階層が社会を動かしているのだ、と考えていたようだ。資本主義は創造的破壊によって成功を修めてしまうがゆえに、自己崩壊してしまうらしい。そして、社会主義という望ましからぬ結末を迎えてしまう、と考えた。望ましくないと考えていたのに、社会主義を受けとめている。こんなシュンペーターは、社会経済システムにあまり関心がなかったのではないかと思ってしまう。とにかく、利潤は企業家の知恵から生まれる、という事実が決定的に重要だったのだろう。エリートは国家資産であると唱えながら、自身もエリートたらんとしたところは天晴れである。 「資本主義は生き延びうるか。私はできるとは思わない」や「社会主義は作用しうるか。もちろん、作用する」という語り口は、ここにきて、いかにも彼らしく感じられるようになった。

マルサス,リカード

ハンドルネーム

エッセイ

ゼミ代くん

楽観論から悲観論へ 〜対照的な2人 マルサスとリカード〜

 マルサスとリカード。前者は学者であり、後者は実業家であった。しかし、「法則が目の前の現実世界に当てはまるかどうか」と現実世界の実情に興味を持ったのが前者で、「諸法則」だけに関心を持っていた理論家だったのは後者だった。  おまけに前者は貧乏であったにもかかわらず富裕な地主を擁護し、後者は金持ちで後に地主にもなったにもかかわらず地主達の利益に対抗して戦った。加えて、前者が嫌われ者だったのに対し、後者は人気者であった。 学者と実業家、貧乏と金持ち、地主擁護派と反地主派。嫌われ者と人気者。これだけ見ても対照的な2人であるが、金持ちだったリカードが反地主派で貧乏だったマルサスが地主擁護派ということころが実に面白い。 さらにこの2人が無二の親友だったところがもっと面白い。

 マルサスによれば人口の増加力は生活の糧を提供する土地よりあまりにも優れているとのこと。確かにそうだ。これは納得できる。しかし、次の言葉には驚かされる。「人口減少のための積極的かつ有能な執行者は人間の悪徳である」と。よくもまあ残酷なことを大まじめに言えたものである。人気が出るはずがない(笑)。 一方、リカード。リカードの業績は模型の世界を作ることによって経済学に強力な抽象道具を提供したところである。抽象的道具の問題点はあるものの経済学の主張が科学として考えられているのはリカードの単純な考えの賜物であるらしい。 200年続く考え方をリカードは作り出した。古典に触れる意義というものはこの辺にあるのだろう。何千と出版された本の中で、消えることなく後々まで残った古典というものは価値があるはずだ。リカードの抽象道具が200年間も用いられ、今日では複雑系の登場で批判にさらされる抽象モデルであるが、ここまで残ってきたからには無価値であるはずがない。

 さて、この対照的な2人が意図せずに成し遂げたこととは何か。時代の視点を楽観論から悲観論に変えてしまったことである。社会をそのまま放置しておけば不条理で悲惨な終末へ向かうだろうことをマルサスとリカードは示した。社会の流れから距離を置いて超然として立ち、感情を交えない目をもってその流れの方向を描いたのである。 感情を交えて自分の住んでいる世界を悲観的に見ることは普通の人にもできることである。例えば、自分がふられたあとには世界に対して希望など見いだせないし、景気が悪ければ将来に対して誰でも悲観的になる。 感情を交えずに世の中の流れを見れるようには学問をするしかない。ただ、それが望ましいか否かは学問が決めることではない。

社長

イギリスで産業革命が起こった時代(18世紀後半〜19世紀前半)に活躍した、2人の偉大な経済学者、マルサスとリカードに関して考察しよう。彼らの主張の多くは、現代においても注目に値する。
リカードは、機械の採用と雇用量の関係を考察する過程で、「労働も一つの商品であり、市場価格を持つ」と主張したことは興味深い。現在、構造改革の名のもとに大量のリストラを進める企業経営者は、彼の主張にさぞ元気づけられることだろう。
一方、マルサスは、著書の『人口論』の中で「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが、食糧は算術数的にしか増加しない。そのため人口の制限を余儀なくされる」と主張している。彼の面白い点は、自らの人口原理に基づいて、「救貧法(貧困者に最低生活費を保障する法律)を廃止すべし」という立場を表明した事である。彼はその論拠を次のように述べている。「救貧法は食糧を増加しないで人口だけを増加させ、より社会不安を招くだろう。なぜなら、貧困者は自ら一家を支える見こみがなくても、救貧法による援助をあてにして結婚するからだ」…いわゆる「ただ乗り」の問題である。
現在の日本の政治においても、政府が行う社会保障のレベルをどの程度にするかという事は、極めて重要な問題となっている。マルサスの見解は、財政構造改革を推進したい一派や、累進課税に文句をつける富裕層を元気づけることになりそうだ。ただし、日本の場合は、なかなかの高福祉社会であるにも関わらず、未婚率・晩婚率が上昇し、少子化が進んでいるため、説得力には欠けてしまいますけどね。
また、一方でマルサスは日本の農民の味方にもなるかもしれない。リカードは、比較優位の理論を提唱し、「自由貿易によって生活必需品が安い価格で得られ、資本蓄積の進展に寄与する」と述べ、穀物法に反対しているのだが、マルサスは穀物法による輸入制限に賛成しているのだ。彼はその論拠として、国内農業の保護と食料自給率の安定をあげている。食料自給率安定の必要性は、北朝鮮のテポドン発射や、台湾と中国のゴタゴタを考えると、今日の日本においても説得力を持っていると私は考える。

ルルル

 はっきり言って、私はマルサスについての知識を何ら持っていなかった。そして彼の著書、『人口論』についてのくだりを読んでいくうちに感じたことは、「知らないほうが良かったかも…」ということである。"人間の悪徳こそ、人口減少のための積極的かつ有能な執行者である"なんて、あまりにも悲しすぎる。
 そのことを語る前に、まず『人口論』についておさらいしておく。自然界の中で人口はあらゆる可能な生存手段を上回る傾向があるということ、つまり、人口の増加力は生活の糧を提供する土地の能力よりあまりにも優っているために、そのあとに起きることは…ということが述べられている。まさしく「絶望の理論」であり、私は彼に対して恐怖を感じた。確かにこの理論は、現実に低開発地域において確認され、"予言"が当たったかもしれない。しかし、そのことより私が問題視していることは、こんなにも重く難しい問題を彼はひょうひょうとやってのけたのでは、という気がしてならないことだ。そこに彼の恐怖を感じるのである。単に、私が楽観主義なだけなのだろうか。このように物事をドライに見る人がいなければ、人間は無秩序のままで、それこそいつかは滅びてしまうのであろうか。考えていくと、本当に陰鬱になってしまう。
 一方、リカードである。『経済学原理』の中で、労働者、資本家、そして地主について「悲劇の」体系―地主だけが何もせずに利得を得られるという、これも言ってみれば"悲観的な"地代の法則を導き出した。そして穀物条例と戦い、自由貿易の利益を説いていったという。リカードと言えば比較生産費説、といった図式が私の頭の中にあったが、「リカード=比較生産費説」の間に、もう1項付け加えることができた、といった感じだろうか。
 彼ら二人は、その時代の視点を楽観論から悲観論に変えてしまったという。しかし、二人の悲観の質は異なるもの、つまり、リカードのそれは知を持って説明されるものであり、マルサスのそれは無情なるものだったのではないだろうか。例えばリカード、マルサス両者の"悲観"を天秤にかけてみたとしよう。頭で考えればそれらは釣り合うかもしれないが、心で考えてしまうと明らかにマルサスの方に傾いてしまう気がする。彼らが人々に与えた悲観は、そのようなものであったのではないだろうか。

やべっち

学問研究の徒であったマルサスが現実社会の実情に興味を持ち、一方で実業家であったリカードが抽象的な理論に関心を向けた、というエピソードはおもしろい。この二人の知的好奇心の広さを感じる。やはり、偉大な学者というものは絶えず新しい領域に踏み込んでいくものである。そして、二人が親密な友人であったことも微笑ましい。おそらく、いや確実に、リカードの方が切れ者であっただろう。そのリカードに対して、圧倒されると分かっていながらも果敢に挑むマルサスはたくましい。どちらかと言うと、私はマルサスの方に好感を持ってしまった。
マルサスはイギリス社会の将来を暗いものだと予測した。愚かな労働者が、賃金上昇に気をよくして子供を増やし続ける。その結果、人口が指数的に増加して、限られた食料供給を奪い合い、やがて貧困に陥る。誰もが楽観的な未来を展望していたときにこんな悲観的な見通しを主張したら、罵られるのも仕方ないであろう。ちょうど、投機が起きているときに「やめろ」と言うようなものである。しかも、貧民階級の幸福を願って主張した過激な政策(例えば、奴隷制・幼児殺し・疫病の容認、貧民救済の撤廃など)の真意が正確に伝わらなかったのはあまりにかわいそうである。唯一の救いは、幸いにしてマルサスの予想が外れたことだろう。
リカードも悲劇的なシナリオを描いた。にもかかわらず、彼は罵られるどころか、むしろ敬意を表された。「差額地代」理論において、地主だけが利得を奪取することを、彼は痛烈に非難した。これが、台頭しつつあった資本家たちにとても受け入れられた。リカードはまさに資本家たちの擁護者であったのだ。おかげで資本家は自由貿易を勝ち取ることができた。そればかりか、リカードは今日の経済学にも重大な影響を与えている。リカードもまた、現実社会の抽象化をみごとに成し遂げた。その聡明さ・思慮深さ・謙虚さゆえに、マルサスも敬服したのであろう。

純平

産業革命以降の人口爆発。この問題を初めて指摘したのは『人口論』の著者、トーマス・ロバート・マルサスである。
 マルサスの父ダニエルはヒュームやルソーと親友で、啓蒙思想家だった。当時の啓蒙思想は産業革命以後、力をつけてきた産業資本家たちの自信を示す主張でもある。マルサスは父の思想的立場に微妙に影響され、あるいは反発しながら、『人口論』の基底となる考え方を形成し、「啓もう思想家が言うほど将来はバラ色なのか」と問いかけることになる。
『人口論』の中でマルサスは「私にとって、次の二つは定理と思える」と書いている。
(1)食糧は人間の生存に必要である。
(2)男女の情念は必然であり、ほぼ現在の状態のままあり続ける。
 この二つの定理のうち(1)の食糧生産は一、二、三と等差数列的にしか増えないが、(2)の情念が現在の状態であり続けると、結果として人口は二、四、八と等比級数的に増える。故に(2)は、強力かつ不断に制限しなければならないとマルサスは主張した。
 彼は当時の英国の現状を次のように分析する。幸いにして、わが国では紳士・淑女は結婚すれば必然的に生活水準の劣化をもたらすと知っている。彼らに仕える召し使いだって、独身のまま主人と同様の安楽な環境にいたいと思っている。商人や農民は一人前になるまで結婚しない。これら「予防的制限」は効いている−。
 そのうえで、マルサスは「積極的制限」として、救貧法の廃止、農地の開墾を訴えた。また、みだらな性道徳や大都市の混乱、ぜいたく品を作る工業、疾病、戦争は「いずれも人の心が作り出した不幸と悪徳だが、人口抑制には効いている」と書く。
 互いに尊敬していた論敵の無政府的啓もう主義者ウィリアム・ゴドウィンが「これらは政府と私有財産制度が生み出した」と指摘するのとは対照的だ。
 マルサスは『人口論』を世に出したことで一人前になったと思ったのか、三十八歳でハリエットと結婚した。そして、その翌年には長男ヘンリー、次いで長女エミリー、さらに二女ルシーを得ている。それ以降はハリエットに出産の記録はなく、マルサス自身は気管支炎のため六十八歳で亡くなるまで禁欲を通したようだ。
 マルサスは、革命を主張するマルクスやエンゲルスに"坊主マルサス"とやゆされようとも、「存在するもろもろの害悪は、避けようと努める活動を育てるためにある。その活動が活発なほど、創造者の意志に沿うのである」と、革命でなく改善を旨とする保守主義を貫く。健康で貞淑な妻ハリエットを選び、幸運にも恵まれ、また自らにも禁欲を強いたマルサスの人生は幸せだったのではないだろうか。

モンタ

彼らに関するものを読んでいて、私が非常に興味をひかれたのは、マルサスの唱えた「人口論」というものである。食物の量は限られているが、人類は放っておけば、どんどん増える。世界中で起こっている貧困、飢餓などは、人類の歩みの中で運命的なものであり、それによる人口減少によって、人類は危うく救われているのだ、という主張である。戦争、疫病などもそうした役割の1つを担っているという。マルサスが案じていたのは、西欧の国々だというが、今日、人口増加が問題となっているのは、東や南の国々である。そして、それらの国では、やはり、貧困、飢餓が問題となっている。マルサスの理論は正しいのであろうか。だから、こんなにも長い間、多くの人がその解決法をどうにか見つけ出そうと取り組んできた貧困、飢餓はなくならないのであろうか。そうして、人類はバランスをとっているのだろうか。しかしながら、ここで日本を見てみると、少子化・高齢化が問題となっており、もっと子どもを生みやすい環境を作り出そうとしているのである。ここから、人口増加は人類に必然ではないのだ、ということが分かる。人口が増加する国と、横ばいになっている国と、何が原因となって違いが生じているのだろうか。おそらく、原因と結果が非常に見極めにくいところなのであろう。これからの研究テーマとともに考えていきたい点である。こんなことを考えていたら、人類は今、進歩しているのだろうか、という根本的な問いが浮かんできた。明らかに今、人類は前進していると自信を持って言える人はどのくらいいるだろうか。

カサポン

世の中は面白いと、つくづく思う。そして、ここまで深く物事を考える事が出来る能力と好奇心に深く感心してしまう。 まず、マルサスについて。今になっては、もう周知のこととなっている人口問題であるが、貧困の原因が今だ謎に包まれていた時代、人口との関連を調べ人口に起因した行動は凄いと思う。また、多くに人からの批判を受けながらこの活動を続けていたことにも感心してしまう。多分殆どの人が、周囲からの批判を受けたら、自分の研究が間違っていると考えてしまうだろう。その点、偉人は凄いと思う。「自己満足と進歩の心地よい展望に向けられた時代の希望をぶち壊しにしてしまった」というのだから凄い。 マルサスが考え出した人口問題の処置は、今もなお生き続けている。インドや他の発展途上国では、家族計画の教育が大きく扱われている。何百年も前に考え出されたことなのに、いまだ解決できずに問題が残っているとは、人間は自分の社会を支えられる程賢い動物ではないのだなとつくづく思う。 次にリカードについて触れる。どちらかといえば、リカードに憧れてしまう。商業の才があり、地主を批判して自ら地主になって儲ける。社会全体を述べることと、自分自身の行動はそれとは別に考える人には共感してしまう。例えば、私が女性の社会進出を唱えても、それは社会全体を見て述べたことであって、私個人には当てはめずに、早婚して家庭で活躍するといった感じだ。 こんな二人が親友だったなんて。本当に社会の傍観者としての姿勢を保ち、公明正大に観察してコメントしている。このような天才が現れなければ、社会は本当に荒れてしまうのだなと感じた。

サン・シモン,オーエン,フーリエ

ハンドルネーム

エッセイ

ゼミ代くん

夢見がちなオッサンたちがくれたもの〜オウエン、サン・シモン、フーリエ〜

 ロバート・オウエンのニュー・ラナークは僕が9月に行ったスコットランドにあったそうで、日程的に行くことはできなかったのだが見てみたい場所ではあった。 (時期的に(笑))サンタを信じる子供がいるようにユートピアを信じる大人がいてもよい。幸いにニュー・ラナークは成功した。そこで彼はアメリカに「ニュー・ハーモニー」を建設しようとした。1824年、日本が江戸時代の頃である。ところが成功しなかった。それで彼はUKに戻ったのだが、今度は道徳運動を始めた。それが今の労働組合の先駆けとなった。実にロマンティックなおじさんである。

 次にサン・シモン。彼は笑える。その名も革命家貴族である。フランス革命に身を投じ、人民の支持で国民議会に入ると爵位の廃止を提案し、自らも市民になった。保護軟禁から牢獄行きの後、資金を知識の探求につぎ込み、フランスのあらゆる知識人から知識を得ようとする。そこで、社会研究を行うには家庭生活の経験に欠けると思うと3年契約の結婚をする。大まじめな大バカ野郎である。結局、知識の探求も結婚も出費がかさんだ。革命家貴族は最後には物乞いになった。そこで彼は宗教ビジネスを始める。ここで彼は新しい社会のイメージを与える。「王侯貴族がいなくなっても痛くもかゆくもない」ということだ。ここから、労働者こそ社会の最大の報酬を受けるべきだということが導き出されるが、現状はいらない人が多くを受けていた。さて、これをどう正していくかについては彼は触れていない。

 そこから先はフーリエが提供してくれた。オウエンの「協同村」のような共同組織集団へと組織されなければならないとした。その中で仕事を怠ける人はおらず、汚い仕事は子供がやることになっていた。そして大きな利益が出て、構成員は所有者かつ労働者となる。かなり性善説なお人である。結局、共同組織集団は現実社会に根を下ろさなかった。

 彼らユートピア社会主義者は夢見がちな人たちである(だからユートピア社会主義者というのだが)。だが、僕らがこうして暮らしていられるのは彼らがいたからだ。経済法則によって正当化された過酷な資本主義に対して勇敢に立ち向かい、それがやがて頭で考える共産主義へと発展し、一方の資本主義は共産主義との闘いの中で修正資本主義へと変質していく。彼らが夢を見なければこの国のかたちも変わっていたかもしれない。彼らが極端に走ったのはそれだけ現実が過酷だったからだろう。満たされた今の僕らに彼らの思想について批判する権利はない。

ルルル

哀しいかな、人は失敗という言葉を目にすると、その失敗をした人物のことを「ダメ人間」とか「悲劇の人」なんて思ってしまうところがある。それは「失敗」という言葉が、あまりのもネガティブな要素を含みすぎているからだ(というか、ネガティブなだけ)。言葉だけでは、『失敗は成功のもと』なんていう美談を読み取ることは不可能に近い。
 さて、なぜこのように書き出したかというと、案の定、ここでも哀れな3人の男性が登場したからだ。彼らは三者三様に理想、つまりユートピアを描き、それを試みたものの、結果は失敗に終わってしまった。ここで「失敗」と言いきった時点で、このエッセイは終わってしまい、残るものは彼らに対する同情だけだ。そこで今回は失敗までの過程を見て、そこから彼らの残した功績を考えてみたい。そう、重要なことは、彼らは失敗したにもかかわらず、なぜここまで注目されたのかということではないだろうか。
 オーエンは"実践と純真、偉業と失敗、常識と狂気が奇妙に入り混じった人物であった"ということは、本から十分に読み取ることができる。人間は環境の生き物であると悟った彼は、「共同村」を作ることで彼なりのユートピアを築こうとした。しかし、あまりにもロマンに満ち溢れ、理想を求めつづけてしまった結果、失敗したのではないだろうか。サン・シモンは、シャルマーニュ王から啓示を受け、何でも知ろうと努力を重ねたところまでは素晴らしいと思う。また、社会のピラミッドを正しい姿に、という提案をしたことも良いと思う。しかし、経済学者特有の(彼は経済学者ではないかもしれないが)、「どこか変」が、結局は彼をダメにしてしまったのだろう。フーリエは言うまでもなく奇人だったが、単純にユートピアという言葉だけで考えると、彼が描いた世界が一番しっくりするのではないかと私は思う。海はレモン水になったり、従順で非常に有用なアンチライオンが現れたり、それはそれは面白すぎる発想だ。社会を改造する処方箋まで作り上げたということだが、その処方箋は天国的な要素を含みすぎていたため、もちろん実践することは不可能だった。
 以上のように、彼らは「失敗」した。しかし、ここまで名を残しているその理由は、愚かと思われるほどの理想を堂々と公表し、彼ら自身が失敗に気付こうとも、気付かなくとも、理想をいつまでも追いつづけたことにある思う。結果よりも過程が大事と、ここで初めて言うことができるわけだ。彼らが注目されたのは、むしろ失敗したからこそなのではないだろうか。
 全くの余談だが、ひとつ彼らに教えてあげたい。私の好きな唄にこんな歌詞があるということを。「今日は昨日の悲しみも 明日への不安も すべてしまって 夢見て笑っていようよ」。彼らにもこの位の余裕があれば良かったのに、と思ってならない。

純平

産業革命以後の初期産業社会がその新しい矛盾をあらわしはじめるとともに、それに対する批判をひっさげて登場してきたのが、サン・シモン、フーリエ、ロバート・オーウェン、らに代表される初期社会主義者の一群であった。かれらのまえに現存していた社会は自由放任時代の初期産業社会であり、そこには貧困、不平等、抑圧、不安定などのさまざまな矛盾が渦まいていた。かれらはこのような矛盾のない産業組織や社会組織、つまり、ゆたかで、平等で、自由で、安定したユートピアをえがき、それを社会主義と名づけた。
一九一七年にロシア革命が成功し、社会主義をみずから称する社会が地上に出現するまで、長いあいだ「社会主義」はユートピア、つまり「どこにもない国」の問題であった。現実に存在するのは自由放任の初期産業社会であり、そこには産業革命の衝撃にともなう貧困、不平等、抑圧、不安定など、さまざまな矛盾が渦まいていた。それは農業社会から産業社会への転換の、歴史上はじめての経験の時代であり、試行錯誤にみちた過渡期社会であった。この矛盾にみちた現実の初期産業社会をサン・シモン、フーリエ、オーウェンに代表される批判者たちは「資本主義」社会とよび、これに対して、矛盾のない理想社会、つまり、ゆたかで、平等で、自由で、安定したユートピアを「社会主義」社会と名づけた。とくに「資本主義」という呼び名には、資本の支配こそがいっさいの悪の根源であり、それを廃止すれば矛盾は解消に向かうという考えかたがあった。
資本主義と社会主義の関係が、現実とユートピアの関係としてしか存在しなかったロシア革命以前の時代においては、現実の悪はすべて資本主義体制に帰せられ、社会主義はどのようにでも美化することができた。しかし、ひとたび、ロシアに社会主義とよばれる社会が現実に生まれてみると、この関係はもはや従来のように現実とユートピアの対比にとどまっていることはできない。そして、事実、ロシア革命の現実は、社会主義もけっして夢のような理想郷ではなく、多くの矛盾をいぜんとして内包した、人間的、あまりに人間的な社会であることを明らかにした。スターリン時代の歴史が示しているように、革命後のロシア社会は、それに特有の悲惨と栄光につつまれていたのである。
しかし、現実とユートピアという関係は、その関係が終わったのちも生き残って、現在なお、資本主義、社会主義という言葉のもつ意味論的反作用のなかに、無意識のままにしみこんでいることが多い。この一九世紀いらいの意味論的習慣の根強い名残りは、現実の社会の比較研究をいちじるしく阻害している。「資本主義」や「社会主義」についての固定観念、つまり、偏見の所有者たちは-どちらを熱烈に支持しているにせよ-、伝統的な一九世紀的な観念の色めがねをとおしてしか、現実をみることができない。こうした固定観念の有害な影響をさけるために、われわれは「資本主義」「社会主義」という感情的電圧の高い言葉をひとまず使用しないで、産業社会の歴史を再検討してみることが必要であると思う。

モンタ

彼らの主張はすべて、突拍子もないことのように聞こえるが、実際に「共同村」や「ファランクス」といったものがつくられたと聞いて、なんだか物語を読んでいるような気分になってきた。しかし、ここに書いてあるのはフィクションではなく現実に起こったことであるし、また実際、彼らは歴史に名前を残しているのだ。1歩間違えれば、病院に担ぎこまれそうな主張が、ある一部の人には、説得力をもって受け入れられたのは、なぜなのだろうか。みんな夢を見たいのだということの表れなのだろうか。確かにここに描かれているような世界は、かなり理想的であるかもしれない。しかし、神様はすべての人間の心をそんなにきれいには作っていないということは、本能的にほとんどの人が分かっていることである。だから、多くの学者はそういうことを考慮に入れた上でものを考えなくてはならないのだし、それがもっとも難しい点であると思う。そういったことをあえて考慮に入れずに理想を唱えつづけた彼らや、彼らの主張を支持した人たちを「無知な人びと」と、私たちが片付けてしまわないのは、やはり彼らの主張のなかに何か魅力的なものを感じてしまうからなのだろうか。少なくとも私は、一生涯続けてこのような一風変わった自分の信念を貫き通した意思の強さと、このことを声を大にして主張した彼らの勇気には一目置いてしまう。また、新たな風を人類に吹きこんだという意味でも、彼らは大きな存在であろう。ミクロサイズになって、彼らの脳の中に入りこみ、彼らの考え方のプロセスを探ってみたいという気持ちになった。

社長

今回は、一部の人達からは、変人・奇人であると称されてしまった、風変わりな3人の人物について考察しようと思う。その3人とは、オーエン、サン・シモン、フーリエの3人である。
まずは、ロバート・オーエンからいってみよう。彼は、労働者の生活条件や改善のために、スコットランドで紡績工場を設立したり、北米で「ニュー・ハーモニー村」を建設したりした実業家である。これらの活動は、労働組合や協同組合の発展に大きく貢献することになった。これだけ言えば、「ちっとも変人じゃないじゃないか。意外といい奴じゃねえのか」といった声が聞こえてきそうだ。しかし、当時は自由放任主義の考え方の方が、流行であったので、「何をいってるんだ、このオッサン」となってしまったのだ。福祉国家の考え方はまだ、根付いていなかった。世の中の正義や流行はコロコロ変わるのである。
 次は、サン・シモンである。サン・シモンの凄いところは、自分の主張と行動に一貫性が見られることである。彼は、民主主義を理想としていたため、自らの爵位を放棄してまでただの市民になった。これは、私にはもったいなくて出来そうもない事だ。、
ただし、彼は、自分の好奇心が旺盛なためか、財布の懐具合を考慮せずに浪費を続けた為、パトロン達に財政援助を頼むこともたびたびあったようだ。私も、あまり、金銭面の管理はしっかりとやっていないので、注意が必要だ。将来の生計が、万が一やばくなるようであれば、サン・シモンを見習い、寮に住んでいる先輩・後輩からお金を分けてもらう事にしよう。出世払いで一人1万円とすると、100万近く集められる。それだけで半年も暮らしていける。
最後はフーリエである。晩年の彼は、世の中を改造する計画に資金を出してくれる大資本家が現れてくるのを今か今かと待っていたようだ。しかし、結局、「あまりに空想的すぎる」ということで、誰も現れなかった。私も、待っているのだが、誰も来てくれない。来るのは、公共料金の請求書と就職資料だけである。
今回、紹介した3人は、マルクスによって空想社会主義者と揶揄された人達であるが、彼らは上層階級に対して「社会改革は最終的にはみなさんの利益になる」ことを懸命に説得しようとした改革者であった。世の中を本気で変えたいと思うならば、彼ら3人のように人並み外れた耐久力と頑固さがないとダメであろう。私なんかは、人の意見を聞くとすぐ目移りしてしまうタイプなので、革命家にはむいていないのかもしれない。革命家は、自己中心的で、ある意味、馬鹿でないとなれない。

カサポン

バート・オーエン,サン・シモン,シャルル・フーリエ この世に本当のユートピアが存在したら、どんなに幸せなことであろうか。私は、休日姉と居間でゴロゴロしながらいつもそんなことを話している。しかし、万人が苦労の多い仕事をせずにゴロゴロと好きなことばかりして過ごしていける社会を作り上げようとした者は、世の中には存在しないようだ。彼らについての章を読む前に少々期待したが、ユートピアを想像していた彼らも、そんな怠惰な生活は望んでいなかったようだ。 ロバート・オーエンが実行して失敗したユートピアに似たものが、日本にもまだ存在するということを聞いた事がある。かの有名な作家の武者小路実篤が設立した「新しき村」である。自然の命と人間の善意を信じて立てた理想の地だそうだ。自足自給の生活をしているそうである。現在その「新しき村」がどのような状態にあるのか申し訳ないが知らない。しかし、ロバート・オーエンが作った「協同村」が貧民のコミュニティーになってしまったのは、なんとも言えない。確かにそうなってしまったのは、納得できるが。 社会主義は今となってみれば、遅れた思想のように捉えられている。確かに、経済至上主義の中では成り立たない。しかし、この三人の幸せな思想がなんとも私の心を掴む。競争競争の社会はなんとも疲れる。フ―リエが夢想的な世界は幸せだ。「調和」の至福の頂点の8000年間がなんとも魅力的である。人々は144歳まで生き、その内の120年間は性愛の自由な追求で費やすというのだ。愛する人と長い時間を共有できる事がなんて素晴らしいことであろう。そうは言っても、フーリエは実に頭のおかしい人だ。 幸せの一途をたどって行けば、このような思想に行きつくのだろうか。現在、発展途上国の援助を一生懸命いるが、果たして発展途上国の人々は先進国のような進歩を望んでいるのだろうか。 社会は、経済至上主義で進んでいるから、それに抵抗して幸せを重視する社会状況に変えていくのは難しいと思う。企業が環境問題や地域社会に目を向け始めたことは良いことだと思う。もを追求したい。

やべっち

ユートピアンたちの思想は、単にばかげたものであったのだろうか?確かに19世紀のヨーロッパにおいては滑稽で風変わりだったかもしれないが、現代ならば適用できる考え方もあるのでは、と私は思う。歴史的に見てみよう。19世紀は資本主義の成長期で、悲惨な労働環境のもとで長時間労働を強いられていた。この行き過ぎをなんとか是正しようとして、まずユートピアンたちが登場する。その後、マルクス・エンゲルスが資本主義と闘い社会主義を起こす。その社会主義が20世紀末に終焉を遂げ、200年間断続的に改善されてきた資本主義がいま生き残っている。そのすばらしき資本主義も、残念ながら完璧ではない。いまここに、再びユートピアンたちが登場するチャンスがあるのではないかと思う。 私は資本主義経済を補完する組織として、ボランティア団体を生かしてみたいと考えている。政府は「市場の失敗」を是正しようとしたが、これも十分に機能できていない。「市場の失敗」だけでなく「政府の失敗」をも是正する新たな機関として、ボランティア組織が全面的に登場してほしい。もはや「慈善・奉仕」というボランティアの古いイメージを振り捨なければならない。同時に、企業や政府とは異なる独特のイメージを創り上げていかなければならない。ユートピアンたちが大衆だけでなく、上層階級の利益にもなるような社会改革を実行しようと尽力したことを、現代社会のお手本にしてみたい。 最後に、ユートピアンたちの人柄について語りたい。オーエンもサン・シモンもフーリエも、みんな行動派だ。行動派と言えば聞こえはいいが、かなり落ち着きがない。そのあたりをマルクスは指摘して、空想的社会主義者と呼んだのであろう。行動派の彼らを「空想的」と呼ぶなんて、かなりの皮肉である。「もっとしっかり考えろ」とマルクスは言いたかったにちがいない。彼らに先見の明があったならば、200年間弱の歴史は確実に変わっていただろう。

ガルブレイス

ハンドルネーム

エッセイ

きのぴー バブルと聞いて私の頭の中に思い浮かぶのは、1980年代の後半頃に起こった日本のバブルである。当時私は小学生であったのであまり覚えていないが、なんとなく世の中は華やいでいた気がする。実際私も、クラシックのコンサートやバレエなどに週一くらいで親に連れていってもらっていた。そういえば、クリスマスプレゼントなども現金で5万円くらいもらっていた。小学生なのにプレゼントを現金でもらうのもどうかと思うが、今となっては信じられないことである。ささやかではあるが、バブルの恩恵にあずかっていたのだろう。

 今回この本を読んで、バブルというものは昔から何回も繰り返し起こっていることなのだということが良くわかった。冷静に第3者の立場で考えると、何度も同じ過ちを繰り返すはずはないと思うのだが、そこがバブルの不思議なところである。ガルブレイスは、バブル時の人々の状況を「陶酔的熱病」と表現しているが上手い。確かにそんな感じである。一歩ひいて良く考えてみればいいのにと思うのだが、実際にその状況になったらそんなことは無理なのだろうか。たぶん私もバブルに直面したら、崩壊する前に手を引けば良いやと思い、参入するであろう。この本を読んだ直後にこんなことを言っているくらいなのだから、一攫千金を夢見て大多数の人が「陶酔的熱病」に侵されるのも無理はない。やはり、人間というものは金持ちになりたいという欲求をみんな持っているのだ。地道に働いても得られる金は限られているので、バブルのような上手く行けば大金持ちになれるというときには、手を出してしまうものなのではないだろうか。

 ガルブレイスによると再びバブルが訪れることは明らかなようである。しかも20年周期で訪れると言っている。もしその通りになるならば、次のバブルがやってくる頃、私は30代半ばくらいであろう。自分がどんな行動をとるのか今から楽しみである。この「バブルの物語」での警告を胸に留めて、無一文にならないよう気をつけたい。

社長 皆さんは、80年代後半に刊行された経済専門書の数々を図書館でご覧になった事がおありだろうか。『沈まない国、日本』『日本の高度経済成長の要因分析』『みるみる増えます!家族で行う株式投資』『日本の土地神話』…今となっては笑い話である書物のまあなんと多い事だろうか!当時は日本の経済力を賛美し、その要因を考察する類の専門書や論文が大勢を占めていた。経済成長の要因を終身雇用と年功賃金に求めていた経済学者・経営学者も存在した。逆に、不良債券問題を予測した学者は殆ど皆無であった。    
長期的な視点に立って政策を決定したり、物事を判断するという事は、非常に難しい問題である。5年先、いや1年先の未来さえも想像することは困難である。私なども「今が良けりゃ、いいじゃねえか。今をもっと楽しもうぜ」と考え、目先の利益に飛びつき、長期的に考えると合理的な行動をとっていない人間の一人である。しかし、今回ご紹介するガルブレイスさんは、比較的広い視野で物事を見る能力を持っていた人物であると私は考える。彼は、制度学派の立場に立って、現代資本主義、特にアメリカの産業社会を従来の競争市場モデルではなく、「依存効果」「テクノストラクチュア」などの新しい概念を用いて分析し、種々の問題提起を行った経済学者である。なかでも、彼が主張した「依存効果」は注目に値する。これは、消費者の欲望に従って生産者が物を生産するという消費者主権の考え方に対し、むしろ広告などの手段により生産者が消費者の決意を支配するという事を示す効果である。彼は、欲望そのものが大企業の宣伝・販売活動に依存しそれに操られている事を主張したのだ。また、彼は80年代後半の日本のバブル景気を当時から警戒しており、日本に注意を促している。私もガルブレイスさんを見習い、マスコミが流す大量の情報や次のバブルに首尾良く対応する能力を身につけなければならない。そのためには、世界の歴史の流れを幅広く知る事が大切であると私は考える。ガルブレイスさんのように、時代の風潮を見極めながらも、歴史を踏まえて冷静な感覚で意見を述べるリーダーが、21世紀の社会では必要であると考える。
…最後に、私もちょっと彼を見習って、偉そうな事を言ってみよう。「米国企業の株高は、もはや根拠のないレベルにまで達しているのか、それともこれからも資産価格の上昇が実体経済を上昇させるのかの予測が難しい。しかし資産価格がいくら伸びても、人々が『ああ私は金持ちになったんだ。ちょっと欲しいものを買ってみるか。』と思い、消費を増やしているうちはいいが、物はある程度手に入れると、もうそれ以上はいらなくなってくるはずである。資産価格が膨張しても、それに見合った経済成長が起こらなくなる時はきっとくるはずである。ゆえに米国とて株価の暴落はありうる!」
やべっち 「お金は人を狂わす」そして「投機はまた起きる」
上の二つの事実が分かっただけでも、この本を読む価値はあったと思う。ガルブレイスは実によく社会を見ている。私は素直に歴史の教訓を受け入れたい。しかし、本の中にも書かれていたが、ガルブレイスの見解を善からぬものとして受け止める人もいるだろう。彼らは「お金を儲けるチャンスが目前にあるのに、それを見過ごすのか」と主張するにちがいない。はたして、どちらが「賢い」のであろうか?
この話を進めるには「賢い」の定義をしなくてはならない。私の考えによると、賢い人は自分自身を幸せにするだけでなく、みんなをも幸せにしてくれる。さらに、賢い人は持続的な幸福をもたらしてくれなければならない。一つ目の条件だけなら自分勝手な人になってしまう。そこで、二つ目の条件が必要となってくる。議論が分かれるのは三つ目の条件であろう。「暴落の前の天才」は、確かに暴落前までは自分だけでなく、投機に便乗した人たちにも幸福なひとときをもたらす。しかし、それは暴落前までしか続かないのだ。投機には劇的な暴落が付き物なので、その瞬間人々は不幸になる。よって、「暴落の前の天才」は賢くなくて、投機に参加しない人々は賢いという結論になる。
この結論を得て「これでいいのか」とふと感じた。持続的な幸福は結果としてわかることであって、新しい発見をした時点においてはすべてが不確実であるはずだ。持続的な幸福をもたらすということは、将来を確実に予測することである。そんなことは誰にもできない。そう考えると、私の中の賢い人はいなくなってしまう。
行き詰まったので、考え直そう。ガルブレイスは「金融市場でお金をたくさん儲けて、なおかつ大損する前に退出する」なんてことは無理だから「はじめから投機に参加しないのがベストだ」ということを言いたかったのだ。「暴落の前の天才」も投機、つまりお金に関心を持たなければ、賢い人になれたのであろうに。賢い人と賢くない人は紙一重である。
カサポン 「投資はやっても、投機はするな」私が以前父に薦められて読んだ本にそう書いてあったが、何年か経った今その教訓が生かされるとは。物事はあらゆる所で繋がっているのだなと、深く感心した。
「崩壊の前に天才がいる」とか、「金融の歴史は意識されない」とか、「人間は幸せなときに最も騙されやすい」とか、これは絶対に忘れないぞと感じたところが多かった。記憶に新しい日本のバブルの頃を考えれば正にその通りと思う。10年以上前のことだ。私が今以上に頭が悪く、何事にも反抗的であった時代のことだ。そんな当時の私に景気が良い事など実感することは出来なかったが、経済が破綻し始めて、親が文句を言うようになって、そして私の頭が以前より良くなると、状況が掴めるようになった。
過去を振り返ってみる。金なら幾らでも出すから儲かりそうなことはなんでもやれと、景気の悪いアメリカを尻目に日本の資本は暴れ出す。ゴルフ場を過度に建設する。「お宅の企業は素晴らしい、もっと事業を大きくしましょう。」と銀行は金を貸し、不良債権を増やして行く。地価が高騰すると言って土地転がしが暴れ始めた。最後に政府が地価高騰にメスを入れて、土地を担保に金を貸していた銀行は火の車になる。ここに、レーガン大統領の時代のケインズ型政府とは異なる、日本の政府の特徴が出ているのであろうか。
経済が崩壊した後の社会状況は大変である。給料が出るからと期待してクレジットカードで大量の買い物をした人は、いきなり給料が激減して大変な目に会ったという話しを聞いた事がある。そんなこと以上に、リストラは続いているし、倒産も相次いで起こっている。
金融の歴史は忘れられてしまうと言っていたが、実にその通りだ。人間は幸せだとついつい有頂天になってしまうようだ。
金融の歴史は忘れられてしまうということで、もう一言。このまま、日本の経済が改善に向かって一番怖いのは、今首を切られた人々の困難が再就職できないまま忘れられてしまうことらしい。確かに、今は挙ってリストラの被害者について報道されているが、そのうち大衆の関心も薄れて報道されなくなるであろう。
いい本にであった。ガルブレイスの教訓を忘れずに、地味な成功を遂げようと決心した。
ルルル 投機に関するエピソードは、繰り返し同じことが起きているだけだという。すなわち、何らかの資産の価格が上昇したら、人々はその価値を信じてお金をつぎ込み、さらに価格が上昇し…ついには破局を迎えるということだ。人間って単純な生き物だと、つくづく思った。歴史を見れば、次に何が起こるか予測できるはずなのに、同じ結果を迎えてしまう。その単純さというものは、全てにおいてそうなのではなく、殊に金融に関して単純なのだと思う。
 ではなぜ、人間は金融に関して単純なのかというと、それは金融に対して苦手意識がある、あるいは無関心であるからではないか、と私は推測する。非常に主観的すぎる意見かもしれないが、しかし、好き好んで「今の金融事情はこうなっていて…」なんて話をする人は滅多にいないだろう(それを職業とする人は除いて)。金融に関して何も知らない余り、いわゆるオイシイ話があるとそのリスクも考えずに飛びついてしまい、あとの祭だ、という話の筋のもとがここにあるわけだ。
 また、「金融に関する記憶は極度に短く、その結果、金融上の大失態があっても、それは素早く忘れられてしまう。」という点も、金融に対して苦手意識や無関心であることを強調していることだろう。金融の話が一時的には盛り上がったとしても、何か他の話題があったら、人々の目はすぐそちらに向いてしまう。これは私自身の経験からも納得できることだ。そんな無知であるにもかかわらず欲深い私たちに、ガルブレイスは、「この本を読んでちょっとは学習しなさい。」と警告したのだと思う。
 その昔、ある人はこう言った。「人間は考える葦である」と。無限な宇宙に比べれば、人間は葦のように弱いが、それを知っている人間は「考える葦」として偉大である、という意味だ。私はそんな葦になりたい。なれなくても、少しでも近づきたいと心から思う。あまりこの本とは関係のないように思われるが、これがこの本を読んでの感想である。

 後日談。12月16日付の日経新聞に、「米株高と世界経済―米経済学者に聞く」という記事があり、ガルブレイスがインタビューされていた。現在の米国株高は、疑いようもなくバブルなんだそうだ。それにしても、"バブル""投機"といった言葉が何度出てきたことか。きっとそれらは、彼にとって生涯のテーマなんだろう。さらに付け加えると、彼は今年で91歳なんだそうな。オドロキである。

モンタ ガルブレイスのように、経済について研究して、それを現実の世界に当てはめ、予測をして、人の行動に影響を与えて、といったことを生活の糧にしている人は本当に大変だなー、というのが最初の感想である。金融の世界ほど、予想が難しいところはないだろう。なにせ、予想することが事実を変えてしまうのである。なかなかの曲者である。しかも、そこに富が絡んでくるわけだから、参加者はかなり熱くなっている。それだからこそ、ガルブレイスが何度も言うように、人びとは繰り返し、陶酔的熱病にかかってしまうのだろう。しかも、かなりの知識人も含めて。しかしながら、予想者自身は、決してそのぬかるみに足を踏み入れてはならないのである。はまってしまったら最後、冷静な予想もできなくなるし、すべての富を失う可能性もある。かなりの緊張感を伴いながら、暮らしていかなければならないであろう。…そんなことを考えながら、自分自身を振り返ってみた。この本を読んで、バブルの"バ"のほんの入り口くらいは分かったつもりになった自分は、当然ながら、こんなものにはひっかからないようにしよう、バブルのにおいがちょっとでもしたら仲間に加わるのはやめておこうと思うが、実際にそのような場面がやってきたらどうなのだろうか。これまでの例と同じように、今回は違うと信じこんでしまうのだろうか。それが、お金の持つ魔力なのだろうか。今の自分には、まだまだ、想像のつかない領域であるが、いつの日か、この本を読んでおいてよかったと心から思える日が来るのかもしれない。

アダム・スミス

ハンドルネーム

エッセイ

きのぴー

アダム・スミスも今までのほかの経済学者同様、風変わりな人であり、風変わりな外見だった様である。毎回思うことであるが、なぜ、学者たちは、一風変わっているのだろうか。やはり、独創性がなくてはならないのだろうか。けれども、彼の放心癖は、やりすぎであろう。

どうも、この本に描かれていた外見を想像すると、彼の講義を聞くのは辛そうな気がする。しかしながら、彼は人気のある教授であり、遠いところから聴きに来る学生さえいたのだ。よほど、素晴らしい講義であったのだろう。また、とても画期的な内容であったのだろう。

彼は、オックスフォードにいたとき、ただひたすら、自分が適当だと思った書物を読んでいたとのことだが、それはまさに、学問の原点であると思う。私のいままでの読書量は、かなり少ないが、最近とても後悔している。小学生の頃はまだ良いが、中・高のとき、なぜあんなに時間を無駄使いしていたのだろうと。いまから読み始めても、遅くはないと思うのだが、暇がない。中・高の頃も、受験勉強や部活動に終われていた気もするが、いまよりはましであったと思う。百聞は一見にしかず、とは言うが、所詮人間が生涯体験できることというのは限られているのだ。そうすると、他の人のしたことを疑似体験するには本を読むしかないではないか。本を読めば、知識や情報が増えるだけでなく、人間としても成長すると思う。これからはなるべくたくさんの本を読んでいきたい。「私は本だけを心の友としている」彼のこのセリフに、私はいたく感動してしまった。

さて、彼はかの有名な「国富論」の著者であるが、「国富論」と聞いて私が思いつくことといえば、「神の見えざる手」であるが、それだけではなく、様々な問題を扱っている様だ。当然この頃の社会と今日の社会は同じではないのだが、いまでも、この本から学ぶところは多そうである。だからこそ、彼は今の時代でも有名人なのであろう。  

ルルル

アダム・スミスは数多く存在する経済学者の中でも、私が最も耳にしている人物である。「神の見えざる手」「レッセ・フェール」など、彼の主張はいくつかは知っていたが、その人柄まではさすがに知る由もなかった。――放心癖。なんともまた奇妙な人柄(?)であろう。考え事に熱中するあまり穴に落ちたり、催眠術にかかったり…。"経済学者はどこか変"という私の見解が、ここでも見事にあてはまってしまった。これは良いことなのか、はたまた悪いことなのか、こればかりはイエス・ノーの答えが出るものでもないだろうが。
スミスと言ったらやはり『国富論』や「見えざる手」であろう。しかし私は恥ずかしながら『国富論』が百科事典的本と言うことを、ここで初めて知った。この本はただ"浅く広く"にとどまらず、当時の生き生きとした状況までもわかるという点は脱帽モノだ。また私の興味のある、芸術分野における経済について、彼はこの『国富論』において既に認識していたということも、スミスという人物にさらに興味を抱かせるものである。
「見えざる手」についてだが、もちろんこれは市場法則を導き出したものだ。この市場法則において彼がとにかく信念を貫いていたことは「利己心」と「競争」だ。ここからさらに蓄積の法則や人口の法則が見出される。これらの発見による人々への影響というものは計り知れないものだろうし、そして社会は確かに進歩していったのだろう。
その進歩していった社会―スミスの描いていた世界というものの最終目的地はヴァルハラだった。しかし私はそのことに幾分疑問を感じる。当時のイギリスがどんなに汚かったとしても、余りに多くの人々がどんなに貧しく惨めであったとしても、それらの行き着く先がヴァルハラであると、決めてしまって良かったのだろうか。どこへいっても「利己心」「競争」があることを、彼は誰よりも知っていたはずなのに…。「利己心」「競争」を踏まえた上での幸福ということなのだろうか、または人々に安らぎを与えるためにヴァルハラという言葉を用いたのか。真実は一体何なんだろう…。

正一くん

私が彼の業績を読んで思ったのは、彼は哲学者・道徳家そういったものに近いということです。私は彼を、この本を読む前は、現在の経済学者のような人としてとらえていた。
まず私が感動したのは道徳感情論のなかで彼が人間の感情を鋭く突いているところである。ここで彼は人間が同感するということはいかなることなのかということを人間のいわゆる汚いと思われがちな感情を明確に述べている。更にその他にも人間の野心・富への欲求についてつっこんでいる。そして社会の道徳的判断が適切に行われ、その秩序が保たれるのを明確化しているのが素晴らしかった。ここが私にとって面白いと思った。この著書においての彼はまさに一人の哲学者だと私は思った。
しかし私がそれ以上に感動したのは彼が『国富論』において現在自分の生きている社会を同じように、その分析をしていったことである。その分析の明確さに彼の天性の才能を感じた。彼の労働を価値ととらえたところは圧巻の一言だった。私の独断で彼の素晴らしさをいうと、彼は自分の生きている社会を、人間の感情といったものを含めて包括的に、的確に分析したことであると思う。

カサポン

やはりアダム・スミスも他の偉大な経済学者同様に、随分変わった癖を持っていたようだ。彼の変わった癖は放心癖である。この放心癖が故に素晴らしい世界をかれの頭の中で作り上げることができたのであろうか。
彼は、ヨーロッパ中の人々に市場が如何にして社会を結合させるかを理解させた。この考えの過程は今となっては周知のことであろうが、当時は驚くべきことであったのだろう。善いことをしようと思わなくてよい、利己的に活動すればそれが結果的に市場を合理的に動かす。しかし、この考えはいろいろな問題を欠いておりその欠如部分が後の経済学者によって穴埋めされていった、そう解釈してもよいのだろうか。
私としては、ゼミに入って経済学を勉強するまではアダム・スミスの考えで充分だと思っていた。こうすれば市場がうまく機能すると思っていた。しかし、実際はどうもそれだけでは充分ではないようだ。例えば、社会政策の問題がそうだ。仕事をすればお金を手に入れることができる、なのになぜ仕事がないが故にお金がない人を、一生懸命仕事して満足できるだけのお金を手に入れた人がお金を廻してやらなくてはいけないのか、全く理解できなかった。しかし、どうやらそうではないらしい。スミスが考えたように利己心のまま活動を続けていれば、きっと初期所有分が少ない人はそれが多い人より交渉力が弱く、そのまま一生弱い立場で居るだろう。例えば、お金持ちの経営者と仕事がなくて困っている労働者間では、効率的な賃金交渉ができても公平性を欠いた賃金交渉が成立してしまうだろう。
スミスがこれに気付かなかったのは、彼の居た社会とは関係のなかった事だったからだと思うし、彼にとって世の中がここまで公平性を保つようになるとは思ってもみなかった事であろう。それにしろ、よくこんな事に気が付いたな、よくこんな事を多くの人々に納得してもらえたな、と本当に感心してしまう。

モンタの母

この人もまた一風、変わった人物である。しかし、その学問的な業績はすばらしい。何と言っても、あの「見えざる手」によって「人間の私的な利益と情熱」が「社会全体の利益に最も合致した」方向に導かれるという、あの市場法則を導き出した人である。相当、広い視野と知識を持っていたらしい。
私が興味をひいたのは彼の「善いことをしようとするな、利己心の副産物として善が出てくるようにせよ。」という言葉である。巨大な社会機構に絶対的な信頼を置き、利己的本能を社会的美徳として合理化したというが、このことは現代の様々な事象を考える時にもあてはめられるのではないだろうか。まず、私が最初に思い浮かんだことは、ボランティアの精神についてである。やはり、ボランティアをする動機は自分のための'何か'でいいのだと改めて確信を得た気分だった。よく分からないが、人のために何かするという気持ちはどこから生まれてくるのだろう。結局は、自分自身に何か返ってくるものがあるからボランティアをするのではないのだろうか。それは例えば、自分の幅広い経験・知識だったり、また、善いことをしたという満足感だったり、あるいは、希望の高校に受かるために十分な内申点だったりするかもしれない。それは何であっても構わないと思う。私がおかしいと思うのは、それらの目的を批判することである。本来なら、賃金を得るところをその代わりのものを自分なりに設定しているのである。当然なのではないだろうか。結果、副産物として善が出てくれば、それでいいのだ、ということをこの一言でまた考えてしまった。

バッハ君

言わずと知れた経済学の祖である。世の中の学問は全て何かしら人々に有益な情報を提供するものであり、そうである為に生き残っている。彼は経済というものに着目し、その分析により人々に正の力を与えたのである。彼は労働を価値とし、当時の労働環境改善の必要性を説き、富みの蓄積を論ずることにより人々に働く目的を与えた。奇行や妄想の多さで有名な彼だが、それでも学生達からは尊敬され、多くの人々からも愛され賞賛された。彼は特に労働者階級を支持していたわけでもなく資産家を憎んでもいなかった。ただ単純に社会全体の向上を考え、市場メカニズムの分析という新しい試みを行っただけであった。では何故それ程までに人望を集めたのであろうか。恐らく生涯中立の立場を守ったからではないだろうか。それは後にも先にも極稀な存在である。やはり研究するには客観的な観察眼を持つことが第一である。しかしそれだけではない。彼は社会的には中立でありながら、その分析の結果に従い行動していた。彼が社会的に合理的と認めるならば惜しげもなく援助したのである。それは現在においても社会的善と言われるものばかりである。彼の洞察力が素晴らしかったことが伺える。行動に一貫性があるというのが印象的である。それは素行ではなく、社会人としてのものである。言うことと行うことに一貫性があるというのは人々に尊敬されるためのだ第一条件なのであろうか。考えてみれば現代においても当てはまるような気がする。私もイノセントな情熱を持てるように努力しようと思う。

ゼミ代くん

アダム・スミスはその放心癖と生涯独身だったということを除いては、たいして変わった人物ではなかったという印象を受けた。なにせヴェブレンを読んだあとであるから。 アダム・スミスが書いたのは、今日の社会の底流となっている市場メカニズムの解明についてのことだが、200年経ったいま読んでみても違和感なく受け入れられる内容である。アダム・スミスについてはその人となりよりも彼が考えたことについて印象が残っている。 「善いことをしようとするな、利己心の副産物として善が出てくるようにせよ。」という言葉や「利己心という推進力、競争という調整力」という考えはマーケットメカニズムが大きな力を持つといわれる今日の社会で生きていく上で非常に参考になる。しかも、こんなことを言ったのは何度も言うが200年以上も前のことなのだ。驚きだ。分業による生産性向上についての記述もあらためて読むと、いま当たり前と考えられていることも彼が言い出したことなのかと驚かされる。市場社会の常識はほとんど彼が作ってしまったものなのではないか。 「物事の底流に社会全体に力を与える巨大なエンジンのような原動力が隠されているから、社会は動くのだ。」という考えは政策アイディアシミュレーションを考えていく上で非常に重要と思われる。この隠されている巨大なエンジンのような原動力を探し出して、自分が思うように動かせば社会は動くのだ。見つけることは容易なことではなさそうだが。 アダム・スミスは単なる経済学者ではなかった。哲学者であり、心理学者であり、歴史学者であり、社会学者でもあった。「国富論」は政治経済学の傑作以上のものであった。このように彼1人で幅広い分野について語ることができた。 1人の言葉で様々な分野について語れるということが、経済だけを考えているよりも経済に関することについてより深い理解を可能にしたのではないかと思う。今日、こんな人物は見あたらないし、こういう人物だったからこそ人間学としての経済学を確立できたのではないかと思う。 「いや、あなたがまずおかけになるまで私たちは立っています。私たちは皆先生の弟子なのですから。」 当時の首相小ピットのこの言葉はアダム・スミスの偉大さを一言で表しているように思う。僕はいつアダム・スミスの弟子になれるのだろうか。
社長 「私利を個人的・競争的に追求する事から最大の公共利益が生まれる。」
「自分の富に熱中する事は、疑惑・不信の的となる」という考え方が、庶民の間では支配的であった時代に、こんなことをスミスは言ってのけたのだ。まさしく、大きな価値観の転換を促す新宗教の誕生だ。時間、空間を飛び越えて、現在でも多数の信者がわんさかおり、日本も例外でない。あまりにどでかい宗教なので、キリスト教のカトリックとプロテスタントのように、宗派が別れてしまったりしている。破防法を適用されそうな某宗教とは、比べ物にならないほど強力である。…スミスさんは経済界のキリストだ。
 しかし、スミスは「政府をなくしてしまえ!」と言っていたわけではない。彼は政府の役割として4つ上げている。国防、私有財産の保護、インフラの整備、普通教育である。これらを遂行するためには政府にきちんとした予算を与えなくてはいけないと、『諸国民の富』で述べている。この事を知れば、防衛庁や、警察庁、厚生省、労働省、建設省、運輸省、農林水産省、文部省などの諸官庁が、さぞ喜ぶだろう。文化庁、環境庁、宮内庁は、さぞ悲しむだろう。
そして、スミスは、富が全てであるとは考えていなかったようだ。むしろ、暴力がより少なく、安定した社会こそ彼の望むものだった。市場には欠点もあるが、こうした社会が実現できると考えていたのだ。彼は、「より大きな富は人々の苦しみを和らげ、お互いに思いやりを持つようになる。」と熱く述べている。(これは、現在の日本を考察する限り、外れている可能性が高い。あまり富を持ちすぎると他人に関心がなくなるのだろうか。)さらに、スミスは家庭こそ一番重要であり、個人の幸福の源と考えている。近年、スミスの遺志を受け継ぎ、ミクロ経済学の応用分野として、家族経済学なるものが誕生している。それでご飯を食べている人もいる。
現在、政府の役割の望ましい程度を考える事は、一層困難を極めているが、私もスミスのように明快な論理と言葉で、世の中の人々を唸らせたいものである。

やべっち

「善いことをしようとするな、利己心の副産物として善が出てくるようにせよ」というスミスの言葉に感激してしまった。全くその通りである。私がボランティア活動を普及させるうえで重要だと考えていることは、まさにこの点である。キリスト教的な"men for others"の精神は崇高で価値あるものだとは思うが、多くの人々を動かしうるほどの原動力にはなりえないと思う。「こんないいことがついてくるのならボランティアでもしてみよう」という気を起こさせるようなシステムとはどんなものか、考えていきたい。堀田力さんは、ボランティア活動を普及させるための手段として『ふれあい切符』の制度を考えているようだ。これはボランティア活動をした時の時間や労力を貯めておいて、自分や家族が介護などを必要とした時に引き出せるという制度である。必要とした時にそのボランティア組織がなくなっていたらどうするのか、といった批判もあるようだが、大変興味深い制度である。将来的には全国の組織をネットワーク化して、どこにいても引き出せるようなシステムにしたいようだ。
スミスの話に戻る。彼は最も偉大な経済学者である。複雑な現実社会がどのように機能しているのか、という問題に対して体系的な方法で明確な答えを示した。複雑なものの中から重要なものだけを取り出して一般化する、という作業は社会科学の難しさであると思う。しかしこうした問題に人生をかけてまで取り組む人が何人もいるという事実は、社会科学の奥深さ・興味深さを示しているのだろう。スミスが政治経済学者として今日までその名を残すことができたのはなぜだろうか。それはスミスの哲学的信念が一貫していたからだと思う。ただ残念なのは、18世紀の産業家たちが彼の哲学を理解してくれなかったことだ。彼の本意が無視される形で理論だけが引用されたとは、なんとも皮肉である

マルクス

ハンドルネーム

エッセイ

きのぴー

共産主義の世の中というものは、資本主義の日本に生きている私にとって見当もつかないものである。共産主義であった国が資本主義経済に移行している今だから思うのかもしれないが、なぜ、マルクスは資本主義は崩壊すると思ったのであろうか。今の社会を見たらマルクスは何と言うであろうか。これから、社会主義の世の中がやってくるのだというだろうか。

私の認識では、共産主義というのはみんなが平等な社会を目指しているというイメージがあるのだが、そんなことはありえないと思う。たとえ、社会が工場を所有したとしても、やはリその中でリーダーとなる人は出てくるのだから、平等に生産物や賃金を分配するというのは不可能ではないだろうか。職務によって報酬が異なるのは当然だと思うし、そうでなければやる気も出てこないのではないだろうか。どうやら、マルクスはこういうことには触れていない様である。しかも、「未来がどのようなものであるのかを見るために最後の審判の日の彼方を展望するようなくだりはほとんどない」とある。なのになぜ、この人はかなりの有名人なのだろう。

彼の人物像であるが、イメージとしてはいかめしい人を想像していたのだが、本当に苦虫を噛み潰したかのような顔をしていたらしい。さらに、身なりもだらしなければ家の中も汚く重苦しい性格。けれども彼は町一番の美人と結婚していた。そしてその人はどんな貧乏生活にも耐え、自分は不親切で嫉妬がましく、疑りぶかくて怒りっぽいくせに、浮気をして子供まで作ってしまうような人と生涯を共に過ごしてる。歴史に残るような人には言葉では書き表せないような素晴らしい魅力があったのだろうか。マルクスだけではなくてそういう人が多い気がする・・・。

社長

マルクスは、「常に社会には継続的な変化があり、こうした変化に経済学者も経済学説も柔軟に対応しなければならない」と考えていた。そして、「新興の産業家が古い貴族階級の権力を弱め、新しい統合を達成した後には、彼らが自らに奉仕させる為に集めた労働者から挑戦を受ける番になるだろう。」と説いて回り、人々に大きな影響を与えたのである。
しかし、マルクスは、若い頃の困窮に対する反動として、共産主義を唱えたわけではない。かなり家柄も良く、貴族の娘と結婚したりなんかしているのだ。もし私がそんな身の上であったならば、よりよい社会を思考する事をやめ、毎日パーティーを開き、糖尿病になるまで美味い飯を食い続けるだけで一生を終えたかもしれない。誠に頭が下がる。
またマルクスは、新聞の編集者をしていた際に、権力の分配の不平等が生じる原因であるとして私有財産を否定し、各国の皇室や地主階級を批判したりしたため、時の権力者達から目をつけられるのだが、その際に彼に隠れ場と表現の自由とを提供したのは、資本主義国のイギリスであった事は興味深い。国家に依存することなく資本主義が繁栄する事を認めた自由主義思想は、資本主義に対する最も天才的な反対論者も保護する事になってしまったのだ。そこに歴史の面白さを感じる。
ところでマルクスは、資本主義の弱点のみならず偉大さをも知っていたように思われる。マルクスの主要な著書である『資本論』を読んでみると、何よりも資本主義社会という近代社会の経済的運動法則を解明する事に著書の目的があったと見うけられるためである。ある社会システムを批判する際、そのシステムのデメリットだけでなくメリットを知りつくし、総合的な判断を行わなければ、説明力のある批判は行えまい。
旧ソ連や北朝鮮などを考えると、「共産主義はダメですね。」って事になりそうだが、これらの共産主義は、マルクスが目指していたものとはかなり違うようだ。21世紀に入ってもまだまだ議論する余地があるしぶといシステムであると感じる。はてさて、人間の理性は共産主義を支えられるか?

モンタの母

 マルクスの先見性に彼の偉大さを感じる。まず、マルクスの時代には景気循環というものが資本主義にとって固有の特徴であるということを他のどの経済学者も認めていなかったということに驚いた。また、それぞれの国において異なった方法で処理されてきたとはいえ、マルクスが資本主義を診断して見出した諸問題―経済的不安定傾向と富・権力の集中傾向を筆頭とする―の多くが、依然として私たちを悩ましているという事実が彼の優れた洞察力を物語っている。しかし、先見性というのも酷なもので、「今後、世の中はこのように変わっていく。」と言ってみたところで、それが現在の状況とかけ離れていればいるほど、人々は聞き入れないものである。それは時間が経って事実がともなって、初めて人から認められ、敬意を払われるものである。それゆえ、マルクスも生前は、本当に貧しい暮らしをしていたようである。今日では、こんなに偉大な経済学者として扱われているマルクスが靴や上着を質に入れてしまったため、外出することもままならない日々があったというのは何だか、運命の皮肉さを感じる。
 それにしても、18年かけて1冊の本を書き上げたという事実には、尊敬せずにはいられない。18年と言えば、ほとんど私がこれまで生きてきた時間ではないか。しかも、その著書「資本論」の中での表現も、ただものではない。資本とは「労働の生き血をすすり取る吸血鬼」をかかえてると書いてみたり、資本とは「頭から足先まで、一つ一つの毛穴から血と汗を滴らせながら」この世に生み落とされたものだと書いてみたりする。なんと文学的な表現だろう。これが経済学者によるものだとは信じがたい。思わず、この本に興味を抱いてしまったりするが、私が2500ページという(しかも錯綜した数字に足を踏み入れているという)この本を手に取ってみる日は、いつかやってくるのだろうか。

カサポン

マルクスの名前はやたらと大学の授業で出てくる。『資本論』が有名だ。「大学の頃一生懸命読んだ」とか、「とても最後まで読み切れなかったよ」など大学の教授からマルクスについてちょろちょろと話を聞いた。
マルクスの資本主義に対する予測の過程はその結果がどうであったとしても、その技を盗みたいものだ。歴史を他だ眺めるだけでなく、見通して分析して予測する行為はとても発想的で今の私にはとても羨ましい。また、共産主義革命では彼の本を実際理解していなかったものたちがうまく反乱してくれたのだから、なんとも彼の運の強さを感じる。
しかし、それにしても笑ってしまう。彼もやはり相当変わった人間であったようだ。数多くの人を唸らせた『資本論』を書き上げた彼でさえ、20年間かけてもひどいチュ―トン訛りの英語しか話せなかったようだ。ミルやケインズといった他の偉大な経済学者は数ヶ国語を話せたというのに。更に、文章を書くのに激しく時間がかかる。また、こんなにまで有名な経済学者にもかかわらず、家計の遣り繰りが全くできなかったというのだから笑ってしまう。なんで労働力を価格と結び付けて考えることを発見でき、利潤率は徐々に低下していくことを明らかにしたマルクスなのに、子供にお稽古をさせてやったことで生活を苦しくさせてしまったのか。まるで芝居のような話だ。
また、マルクスが喧嘩っ早く自分の推論の筋道に外れるものが居たら、正しいも正しくないも関係なく激しく倒してしまうというのだから、驚いてしまう。その血の気の多さには燃え滾る激しいエネルギーを感じるが、私生活では貧乏で困ってしまう程だからいったいなんなんだかよく分からなくなってくる。勉強の面でも、気の赴くままに興味あることを探求して行く向学心に満ちた姿勢がなんとも自由に観じ、本当に勉学に楽しむ姿を思い浮かべられ勉強はこうするものなのかと見習いたくなる。彼の名声にしろ、血の気の多さにしろ、生活力の無さにしろ、完璧ではない所にいい『味』が感じられる。

バッハ君

マルクスはいったい何を達成したかったのか。一般にマルクスは共産主義の生みの親であり、それこそ人類の行き着く先であると考えその達成に尽力した人物と考えられている。実際は異なるようだ。私はマルクスを資本主義の擁護者であると考える。当時資本主義は所謂マンネリ状態にあり、世相は劣悪一色であった。ただの経済分析では状況を打開できたためしは無い。マルクスは歴史的観点からそれを悟り、革新的な考えこそが唯一のカンフル剤であると考えたのだ。そこで考えられる将来について最も過激なものを論理的に証明しようとしたのであろう。実際彼の著書の中では資本主義を絶対悪と捉えてはいないのではないかと思う。当時資本主義は根が浅くそれが何であるのかを正確に理解している人は少なかった。そのため人々はナアナアで生活してしまっていた。そのため極端に分かりやすいモデルを世に出す事によって現状の深刻さを分かってもらおうとしたのではないかと思う。これは考え過ぎかもしれない。しかしいつの時代も良からぬ事を企む輩はいるものだ。特に権力というものに関しては人類はじまって以来である。マルクスの長年の思考はそういった人々にうまく利用されたのではないかと思う。彼の文章は分かりにくく、大抵の人々は記述された文章を理解することで精一杯であり、裏の意図を読み取るには至らないのではないかと考えられる。実際にそういった意図があったのかどうかは定かではない。私の考えは歴史を見ることで分かってもらえるかもしれない。共産主義の波は世界中で起こったが達成された国はそう多くは無い。それは当時の支配階級の徹底した抵抗によるのは明らかである。しかしその後世の中はどうなったであろう、戒めとして更なる搾取が行われたであろうか。答えは否である。再度の決起を恐れた支配階級は以前に比べ上向きの処遇を保障し、社会全体が前進方向へと移行した。社会構造も次第に変化し、決定打として政府主導の労働者保護の思想も発展した。社会は改善し始めたのである。中には誤った理解をした勢力が隆盛を誇った国もあった。あるいは理解していたが、人々を騙していただけか。私から見てそれらの国に共通して言える事といえば産業が立ち遅れているということである。共産思想は努力して現状を克服するよりも手っ取り早いのもうなずける。他の国で共産主義が日の目を見なかったのはマルクスが資本主義の慣用で柔軟な体質を見抜いていなかったからではない。マルクスほどそれを理解していた人物はいないのではないかと思う。だからこそ共産体制へのシミュレートについて現実味をもって記述できたのではないかと考えられる。当時の燦燦たる状況に楔を打ち込むためのラジカリズムなのだと思う。結果としてマルクスは資本主義を良い方向へと導いてくれたのである。そう考えるのは間違いかもしれない。私もラジカルな可能性が有る。

ゼミ代くん

悲痛な叫びは革命の歌 〜マルクス〜

 マルクスというと僕の中で「うそつき」というイメージだった。資本主義は滅びず、共産主義もやってこなかった。共産主義国家は次々と崩壊した。決して好きな人物ではなかった。今回、マルクスについて初めてその一生を読んでみた。今までは彼の著作の内容についてにしか意識が行かなかったが、読んだあとに彼の著作が与えた影響を考えるようになった。

 ある一冊の本が世の中がひっくり返るきっかけになるというのだから面白い。正しいか正しくないかはわからないが、とにかく説得力を持った他人の考えに人が酔って実際に行動を起こすというあたりが実に不思議なところだ。

 マルクスが本を執筆していた頃の資本主義というものは相当ひどかった。この章に19世紀のマンチェスターが登場してくるが、「汚濁と絶望の淵に沈み、ジンと福音の伝道にすがり…」というあたりは悲惨な状況を想像させる。また、ある工場の週の平均労働時間が84時間。しかも低賃金。きっと薄暗いような工場の中で、汚れきった空気の中での労働だろう。

 ぬくぬくと日々生活している僕には「資本論」が執筆された頃の労働者の境遇をこの世にあった出来事として想像できない。

 このような状況で「資本主義は滅び、共産主義の世の中が必ずやってくる」と言われれば信じたくもなるだろう。ぬくぬくしたような生活をしている僕(しかも学生)に「マルクスの言ってたことはずれたー!」などと軽々しく口にする資格なんてなさそうだ。きっと、時代がこのような本が生みだしたのだろう。

 共産主義とは、当時の労働者を幸せにするすばらしい理想であり、夢であり、逃げ場所だったのだ。

 マルクスについて読むまで、マルクスはある程度裕福で、労働者の現状を気の毒に思って本を書いた人だと思っていた。ところが、彼自身非常に貧しかったことを知り、彼の著作は彼自身の資本主義に対する恨みと困窮する暮らしの中の悲痛な叫びだったのだと思った。

 「ブルジョアたちが生涯おれのできものを思い出すことになればいいのに。」という言葉は正義感で「資本論」を書き上げたわけではなさそうなことを思わせる。正義感だけでは資本主義をひっくり返すような本は書けないのだ。マルクスの悲痛な魂の叫びが人々の心を動かしたのだろう。それを思うとマルクスも嫌いでなくなった。

 かといって「資本論」を読むかというとちょっと躊躇してしまう。なぜなら、なにかやばい宗教書を読んでしまうのではないか、という気がどうしてもするからだ。彼の資本主義の分析はすばらしいと言っても、やはり最終的に共産主義に向かうというお話なのだから時代遅れの本を読むのではないか、という気もする。これは思慮の浅い学生の考えなのだろうか。

 ただ、「大切なのは世の中を変えること。」マルクスのこの言葉は好きだ。

ルルル

マルクスは労働者階級の人々に、希望を与えたかったのだと思う。「人は自分の歴史―各社会階級が最高位を競う競技場―を作るが、自分の好みのまま作るのではない。」と言い、各人の置かれている環境は選べるものではないとしつつも、自分の知識を人々に啓蒙することで、新たな世界を切り開こうとしたのではないだろうか。
しかし、一般の人々、特にあまり勉強をする機会がなかったであろう労働者階級に人々にとって、彼の主張は難しすぎたのではないだろうか。彼の主張の根底には弁証法的唯物論というものがあったが、これは私にもなかなか理解しづらいものである。"弁証法"とか"唯物論"とかは高校の時の倫理で触れたが、もちろんそんな知識は今では頭の片隅にもなかったので、改めて辞書で調べてしまったくらいだ。また、2500ページにも及んだという『資本論』ども同様のことが言えるのではないか。なぜそこまで書いたのか。確かに優れた著作なのだろうし、読む人が読めば解るものなのだろう。そしてそんな大作を書き上げたことも、彼が偶像視された一因なのかもしれない。しかし、ある程度の知識人でない限り、そのような本は何の意味も成さないと思う。労働者怪階級に光を与えたかったのなら、もっとストレートに「重要なのは世界を変えることなのだ。」と言うべきだったのではないか。
なぜそう言わなかったのか。それはもしかしたら彼の気難しい性格のせいもあったかもしれないし、ひょっとしたらあえて難しくすることが彼の作戦だったのかもしれない。『共産党宣言』では共産主義を"怪物"と表したり、『資本論』では資本を"労働の生き血をすすり獲る吸血鬼"なんて表したりするところはなかなかのセンスをしていたではないか、と私は思ってしまう。より簡潔に、より面白く自らの主張を唱えていたら、私も含めより多くの人々の興味を誘ったかもしれないではないだろうか。

純平

ソ連、東欧の社会主義国家体制の崩壊以来、マルクス主義の敗北死滅論が一層勢いを増してきた。国内の自由を抑圧し数多の犠牲者を出し、他国を侵略してきた体制が崩壊したのは時代の成り行きだし当然の結果だと思う。特にソ連はチェコ事件をはじめ、数々の他国の自由化民主化を武力で弾圧してきた前科がある。計画経済(実態は官僚中心の統制経済)によって経済は発展せず、消費財も豊富にならなかった。いま残っている社会主義国でも中国が経済活力を維持しているが、北朝鮮をはじめ外部に開かれず、物資の困窮している国がほとんどである。もっとも貧しいといえばアフリカ諸国や東南アジア、中南米の資本主義国にも深刻な国が多い。社会主義革命とその理想による国家建設が、20世紀の壮大な実験であり、無残な失敗であると言われるのも納得性がある。しかし、と思う。マルクス主義(エンゲルス、レーニンを加えてもいい)は本当に時代遅れであり、死んだのか?と疑問に思う。マルクス主義はヨーロッパの資本主義勃興期に、資本家の利潤至上主義による労働者の惨状、農村の疲弊、植民地獲得競争に見られる他民族蔑視とあくなき収奪を告発し批判する理論として創造された学説である。資本の暴力による強者が弱者を駆逐する実態を冷徹な論理で解析し、労働者の団結による国家権力掌握で真の自由と平等が達成されると説いた。主眼は近代資本主義社会の害悪の批判である。権力者たちはその指摘をうけて、今日までその一部を取入れ資本主義の改善に努力してきた。ソ連でレーニンが指導した時期、中国で毛沢東が指導した初期など、社会主義国の創生期にはその理想主義によって、当事国はもちろん資本主義国においても大いに貧困問題の解決、人権の高揚、侵略戦争との闘争、民族問題の解決に寄与した。その後の歴史の進歩の運動を鼓舞したその先人達の努力と成果の上に日本国憲法もあり、現在の我々の「平和で豊かな」生活がある。これは否定できない歴史の事実である。私は、マルクスはその時代的制約もあり、政治権力掌握後の国家の明確な青写真は持っていなかったと思う。革命後の社会主義体制はマルクスの理想からかけ離れたが、国家運営の指針まで、彼の死後すべてその著作から導きだせると考えるのは無理があるし、マルクスにとっても迷惑な話であろう。マルクスの功績は、土地や工場など生産手段の一部資本家による私的所有と無制限な利潤追求が、社会の弱者に過酷な害毒をもたらし、人間性を破壊しがちなこと、その解決には弱者が団結して多数を占め、改革しなければならないことを、極めて科学的 に人々に提示したことで十分だと思う。その鋭い批判の視点は現代の日本の各種の改革、世界の南北間の所得格差、民族紛争等の解決にも十分有効である。誤った体制は滅んだがマルクスの学説と運動は生きている。私はソ連をはじめ自由と民主主義の土壌のない議会制もない政治的後進国で、社会主義なるものがスタートしたことに最大の不幸があると思っている。社会主義を批判する側も弁護する側もその「見本」がソ連でしかなかったことは議論を狭くし感情的にした。スターリンの専横、毛沢東の晩年の権力闘争をチェック阻止できなかったところにその政治制度の根本の問題があった。そして今、表面的には自由であり民主主義であると自称している国も、その内情まで詳しく立ち入ると必ずしもそうでない。本当に人間性と人権が尊重されているか?何かの圧迫で自由なる意見の表明が阻害されていないのか?経済的に持てる者と持たざる者の不平等、不公平、そこからくる人間らしさをむしばんでいる事実はないのか?強者を中心とした癒着の国家運営はなされていないのか?われわれはその抜本的解決の処方箋をもっているか?改めてマルクスの提起した批判に学びたいと思う。歴史は虐げられ差別された側からの闘争なしに温情や配慮でのみ進展することはなかったことを証明している。漫然と流されるのではなく、仕事と家族以外に人間的なものに関心を持つものでありたい。歴史の傍観者でなく当事者でありたい。

やべっち

高校の世界史の授業でマルクスの弁証法的唯物論を学んだとき、妙に納得してしまったのを思い出した。この頃から「マルクスはよほど貧乏であったのだろう」と思っていたが、やはりそうであった。失礼かもしれないが、マルクスには貧乏がよく似合う。まさに命をかけて『資本論』を書き上げていくマルクスの姿は格好良くさえ思える。しかし、そんなマルクスもエンゲルスがいなければ、非凡な才能を十分に発揮できなかったであろう。エンゲルスはとても器用な人物である。というのも、資本主義社会の象徴とも言えるマンチェスターの証券取引所で稼いだお金を、マルクスに提供していたのだから。マルクスはエンゲルスから送られてくるお金の出所を知っていたのだろうか?彼はおそらく知っていただろう。『資本論』の中で心ならずも敵につきあわされてしまったように、実生活の上でもつきあわざるを得ないと覚悟していたように思える。しばしば論敵を攻撃したのは、衝動的な行動とみなすこともできるが、日頃のこみ上げてくる怒りをはらすためだと考えることもできる。一方で、資本主義経済社会の行く末については冷静に分析し精緻な理論を構築した。「ハートを熱く保ちながら同時に冷静な分析・判断を下す」という作業は、優れた人間とて容易にできることではないのに、多少のタイムラグはあるものの、マルクスはみごとに両立させている。また、両立させなければ歴史に名を残すことはできないのだろう。
『資本論』を書き上げる上で、マルクスはある方針を定めた。想像しうる限りで最も厳密で純粋な資本主義システムを構成し、それほど最善なシステムでさえ不幸に向かって突き進んでしまうのだ、という証明方法を彼は用いた。マルクスが完全主義者であるのはもはや明白である。彼はこのモデルから予言を導き出し、いくつかはその通りだった。なんせ2500ページも書いてあるのだから、何かは当たるよね

ヴェブレン

ハンドルネーム

エッセイ

きのぴー

まず、びっくりしたのは、自由の国アメリカとは汚い国だったのだなあということである。

ヴェブレンは非常に変わっていた様である。描写されていた外見を想像するだけでも奇妙な人に思えるし、親しい友人も、愛する人もいなく、電話も引かず、通りがけの農夫から借りた麻袋にスズメバチの巣を入れて返したり、どこかおかしいとしか思えない。なのに、女性にもてた?女漁りは度が過ぎていた?信じ難い。さらに、34歳まで定職がなかったなんて、それでよいのだろうか。昔にもそういう人はいたのだなと思った。彼の講義というのもすごい。学生を追い払う教授とは一体なんなのだ。なのに、14年間も勤められたということは、よほどすごかったということだろうか。

彼の最初の著書は「有閑階級の理論」であるが、これは貴族階級の行動についての風刺であった。その一部は読み物としてとても楽しそうである。その風刺のきいた社会観は面白い。有閑階級はその仕事は変わり、生活方法は洗練されたものになったが、その目的は昔からの、働かずに物を略奪することであったとあるが、そこまで言ってよいのだろうかと思ってしまう。しかし、ヴェブレンは変わってはいるがさすがという感じである。「紳士の帽子やエナメル革の靴などの華やかな光沢は、擦り切れた袖口に見られる同じような光沢よりも本質的な美しさを持つものではない。」とあるが、言われてみればそうかもしれない。物欲に支配された今の自分の生活も考えられてしまう。貴族階級には縁はないけれど・・・。経済学者としてすごかったのかどうか良くわからないけれど、風刺家としてはだいぶ面白かったのではないだろうか。

社長

ソースタイン・ヴェブレンは、自分の望ましい社会になるように、社会を誘導する能力を有していたようだ。彼は、建築物や個人的な富の使用に関する現代人の態度を変化させた。それまでは消費は、経済生活の最高目的であり、ベンサムが唱える「幸福」の最大の源泉であり、経済的な努力・労働を最終的に正当化するものであった。しかし、彼は、金持ちがアホみたいに立派な豪邸を建て、毎晩宴会を開くといった行為を望ましいと思っていなかった。そこで、彼は、「誇示的消費」や「誇示的余暇」といった自分で作った言葉を用いて、富豪達の最高水準の消費は、空虚なもの、子供じみた自己顕示にすぎないという印象を人々に植え付けたのである。この人は、言葉の使い方が非常に上手かったこともあってその試みは成功した。富があるからといって、昔の時代のように非実用的な儀式や宴会は、どこにおいても許されなくなってきたのだ。そして、アメリカの富豪は、どんな宴会や邸宅でも、その費用や立派さがある限度を超えると侮蔑の対象になってしまうため、過度の富の誇示を恐れるようになった。また政治家たちも、個人的な富が不適当に誇示されることは、賢明でないと考えるようになった。
つまり、ヴェブレンさんは、アメリカに住んでいた人々の効用関数を一部変えることを成し遂げた男なのである。(無差別曲線の不飽和の仮定は消え去るのだ。)経済学でいうところの天才とは、そういう人物を指すのであろう。
また、ヴェブレンが、普通の労働者や職人が有している「私は自分の仕事に誇りを持っている」といったような職人気質に非常に興味を示している事に対して、私は関心を持った。ヴェブレンに関しては、教育問題を研究する際に再び検証したい。

モンタの母

大変な変わり者だ。こんな人が他の天才的な経済学者の隣に名前を連ねられていいのだろうかと思ってしまう。世の中の常識を常識として捉えないその視点は、人々に新たな目を開かせるという意味で大きな影響を与えたかもしれないが、経済学者として偉大な功績を残したとは思えない。この著者は「機械が当時の経済生活の根本的事実であると見て取ったことが彼の功績である」と述べているが、(恐らく、私の理解不足によるものなのだが)私には、彼の功績がさっぱり理解できない。
 しかし、彼の世の中を見る超然とした視点や、奇行、毒舌的な文章には、やはり、普通の人ではない何かを感じ取ることができる。彼についての文章を読んだ後に残った印象としては、「もったいないな、この人。」という感覚である。不運も影響しているのだろうけれども、もっと彼自身、何かに貪欲になっていれば、自分をもっと活かすことができたのではないかなと思ってしまう。彼は確かに極端なことを言っているのかもしれないが、自分の考えを真剣に聞いてもらおうとするならば、もっと、とことんそのことについて追求するべきであるのに最後で逃げてしまっているように見える。人間関係においても、親しい友人は1人もいなかったというし、心から愛せた女性もいなかったという。これは、人間の性質について考えている彼にとって、大きな損失と言えるだろう。
 それにしても彼は自分自身について、どう感じていたのだろう。彼は自分のやりたいように行動し、そんな自分自身に満足しているようにも見える。でもそれはやはり強がっているだけで、社会に受け入れられない自分に悩んだり、落ち込んだりしたこともあったのだろうか。興味深い点である。

カサポン

私の頭の中での彼の姿は目と脳みそと少しの色気だけである。脳みそをその機能を上回るほどに働かせ絶えず収縮運動を続けており、大きい目でぎょろぎょろと世間を探求心と貪欲なまでの向学心で絶えず観察している。しかし、なんの音も立てない。とにかく冷静で皮肉に世間をじっと観察しているのだ。そして、異性を引きつける不思議な匂い。そんな姿が思い浮かんだ。
本当に変な人だと思う。なんでそんな意味もなく他人に嫌がらせとまで言える事をするのだろうか。なんの意味があるのだろうか。しかし、女性にはもててしまうからなんとも羨ましいことなのだろう。ヴェブレンに魅せられてしまう女性の気持ちも理解できなくない故に、彼の変人振りを非難できないので悔しい。学生や周囲の人に自分をアピールすることなく、そればかりか自ら嫌われてしまいたいような行動をとりながらも、女性は言い寄ってくる。きっと、自分だけに本性を明かしてくれたらという何とも束縛的な期待を胸に彼女たちは寄って行ったのだろう。その気持ちはよく分かる。もちろん私が男性だったら、そんな気持ちなど分かりたくないだろう。人のことを、更には自分の居る世の中を馬鹿にした奴が、女にもてるなんて許せないよと思うのだろう。
しかし、いったいなんでそんなにまで人付き合いが悪いのだろう。自分の居る世界によほど興味がなかったようだ。確かにどうでもいいやと思うときは他人に冷たくなるときが私にもあるが。それでも女性関係は捨てられなかった所が、なんとも人間味溢れていて面白いではないか。
自己満足な学者だなぁ。人のために一生を働くのも素晴らしいことだが、自分のために一生を費やすのも、ここまで自分のために一生を費やすのも楽しそうだなと少し羨ましくなってしまった。

やびん

19世紀後半のアメリカで、こんなにもむちゃなことが平然となされていたとは知らなかった。、多くの経済学者が実業家と一緒に熱狂していたという事実に対して、「しっかりしようよ」と言いたくなる。しかし、こんな話は今が20世紀の終わりだから言えるのかもしれない。私があの時代の人なら、真っ先に熱狂していただろう。というのも、風変わりで異様で孤独で博識で冷静で女好きな(?)ヴェブレンだけが、アメリカ社会の過剰さや贅沢さや野蛮さに気づいたのだから。彼が「有閑階級の理論」について興味を持って研究したのは、自分を最も有閑な人物だとみなしていたからだと思う。ただ、同じ「有閑」でもアメリカの実業家とヴェブレンではなにかがはっきりと違っていた。ヴェブレンは、まるで日本のアイヌ社会で暮らしているかのように、閑暇に対して敬意を表していなかった。その証拠に、彼は大学を出てから何度も職を探している。一連の職探しは彼の周りにいる人たちが世話してくれたようだが、ヴェブレンのことだから、内心では働きたかったと考えていたのかもしれない。こう考えると「閑暇が本質的に労働よりも好ましいのか」などと彼が疑問を抱いたのにも納得できる。一方で、実業家たちは生産活動をしていないのにアメリカ社会の中で尊敬され、荒稼ぎをしている。彼にとってこのメカニズムを解明することは、同じように見える実業家たちと自分を明確に区別することを意味したのだ。そして「有閑階級の理論」「営利企業の理論」で彼はあっさりと解明してしまった。社会の下部で規則的に機械を用いて生産されたものを、社会の上部で意図的に操作して利潤を得ている、という仮説は驚くほど説得力がある。それにしてもヴェブレンのような人生を実際に送りたくはないが、憧れてしまう。知性を解放し探求の領域を拡大させたいし、「人心を撹乱させるような奴だ」と言われてもみたい。

バッハ君

彼は何がしたかったのであろうか。彼はこの世に存在する殆どのものに対して否定的な意見をもっていたようであるが、結局何を言わんとしたのかが私には分からない。主に世の中の構造についての分析をしたのであるが、そう言う彼も結局は長いものに巻かれたものの一人である。俗世間を嫌い、不徳を象徴するような人生を送っている。私が思う彼の残した一番の功績は、何をするにも常に新しい目で物を見ようと努力すること、また常に新しいことを成し遂げようとすることであると思う。そしてその際には如何なる批判をも恐れてはいけないし、保守派の存在を考えると当然のものであると理解することである。しかし彼の場合は度が過ぎていたようであるし、人間関係というものの難しさを分かっていない。学者に精神論は不要だとはいえ問題である。どうやら本当に異邦人のようで、自分を特別に崇高な人間とでも思っているのであろうか。それはいいとして彼は何をしたのか。彼の生きた時代のアメリカは確かに野蛮であるのかもしれない。法律より金が強いというのは到底理解しがたい。そんな中彼は金持ちの偽善、不実を踏襲したかったのかというとそうでもない。確かに今までに無い着眼点と表現の仕方には敬意を表すべきであると考えるがそこで止まっているのが実に残念である。エッセイの色が濃いように思える。普段人々が当たり前のように行ったり、容認していることに対しそのルーツを探る努力は素晴らしいと思うが小説家といったほうが正確なのではないかと思う。結局彼の言う見栄等の俗感情は今も隆盛であり、その否定は資本主義の否定を意味する。いつの時代も風変わりな人は珍重されるものであるが尊敬されるかというとそうではないのである。しかし私はその両方を達成するために努力する。かもしれない。

ルルル

「ソースタイン・ヴェブレンは、実に変わった人だった。」経済学者としてはとても優れている天才なのだけれども何か変…、というこのパターンがまた来たか、と私は思った。しかし、そもそも私は"ヴェブレン"という人物は名前すら聞いたことがなかったので、彼に対する先入観が全くなく、彼がどんなに奇行の固まりでも、妙にサディスト的であろうとも、別にショックを受けることはなかった。そういう人物がいることに慣れができてしまったのかもしれない。(極端な話、たとえば福沢諭吉がそうだったら、それはそれはショックだろうが…)
彼の魅力は、その発想の鋭さであろう。『有閑階級の理論』では有閑階級の人々を"野蛮人"と表しながら、そこから有閑ということ自体の経済的意味を見出し、社会的統合の性質を解く糸口をもみつけてしまう。また『営利企業の理論』では、実業家は経済において中心人物であるものの、もはや駆動力ではなく"破壊者"であると考えることなど、「そんなのってアリ!?」っていうくらいの発想をしてしまう。普通の生活をしていたら、きっとそんな事は思いつかないだろう。そんな彼を批判した人々は、彼の刺激の強い社会観やお調子者のような物言いが気に入らなかったのかもしれないが、何より、それが真実をついていた事が最も腹立たしかったのではないかと思う。
ここでちょっと考えてみよう。ヴェブレンはなぜそこまでひねくれていたのか、と。"異邦人"という意識が彼の中に強く根づいていたせいなのか。幼い頃から「自分は他人と違うんだ」なんて考え、自ら壁を作ってしまっていたのかもしれない。
でもまあとにかく、ヴェブレンが"ヴェブレン的"でなかったら、何かを欠いたまま社会科学や経済学は進んでしまったかもしれない。そのくらい重要な人物であったのではないだろうか…(多分)。

ゼミ代くん

偉大な人格破綻者 〜ヴェブレン〜

 ヴェブレンという人物について書かれた部分は「奇行のかたまり」というタイトルで始まっている。格好からして変わり者である。もちろん、中身は相当変わっている。

 孤独が好きなわりに女漁りの度が過ぎるというのはなかなか笑えるが、何となく理解できる。男に対しては非社交的で、女に対しては取っ替え引っ替えというのは、おそらく、「ヴェブレン・ワールド」には慰めとしての女性は必要であっても人間として向き合う対象としての女性は必要なかったのだろう。きっと誰にも縛られたくなかったのだと思う。

 彼の表現は今読んでみても毒々しい。たとえば、教会組織を「チェーン・ストア」、個々の教会を「小売店」と表現している。また、彼が親の命で通うようになった宗教学校でも平気で「人肉嗜食の嘆願」や「大酒のみのための弁明」の演説を行っている。

 ヴェブレンの行動には笑いがこみ上げてくる。僕も変わり者と言われることが多いが、ここまですごいことはできない。周りの評判が結構気になってしまう。気が小さいからだ。しかし、ヴェブレンのレベルまで行くと気が小さいとか大きいの問題ではなく、どこまで変わっているかの問題のような気がする。

 もちろん、ただの変わり者ではない。ただの変わり者ならば「世俗の思想家たち」の一章を割いて登場するはずがない。

 「有閑階級の理論」に関するあたりを読むと彼のものの見方に驚く。

 現在も肉体労働者よりも実業家の方がステータスとして上であると思われているが、これは野蛮な先祖の仕事や生活方法が洗練されただけで目的は変わらず「働かずに奪うこと」だ、というようなことを述べている。また、マルクスと違って「社会は一触即発の状況にはなく、労働者の目標は上層階級を取り除くことではなく、その階級へよじ登ること」とも述べている。

 どちらの見方も今まで聞いたこともないような考えであったが、なるほどと納得させられる。

 「営利企業の理論」では、実業家は経済局面は中心人物であっても、駆動力でなく破壊者として描かれた。この発想が常人ではない。

 そんな彼は晩年も狂っていた。「アメリカ経済学会」の会長も「なりたい時になってくれって言ってくれなかったからやだ。」と言って就任を拒否したり、土地を横取りされたと勘違いして破壊活動をはじめたり、ともうむちゃくちゃであった。

 ヴェブレンのように世の中の常識をひっくり返すようなことを言うことはモノを考える力が相当ないとできないことであるが、将来的にはできるようになりたいと思う。

 人格破綻者のこんなむちゃくちゃな彼を好きになってしまった。端で見ていて楽しいのだ。

J.S.ミル

ハンドルネーム エッセイ

ゼミ代

J.S.ミル。彼もケインズ同様、天才である。まず、3才でギリシア語を学び始めた。ちなみに彼はイギリス人である。7才でプラトンの対話集の大半を読んでしまった。8才でラテン語を始めて、12才までの間に先人たちの書物を読んだ。12才で論理学とホッブスの著作に取り組み、13才では政治経済学の分野で読んでおくべきもののすべてに目を通していた。

彼は父から天才教育を受けていたのだが、こんな教育を受けていればやはり神経衰弱にもかかる。というより、頭に関するものは全てやってしまったがために「こんなことやって意味あるの?」と思ってしまったのだろう。そして、心についての書物を読んだそうだ。

いくら天才が心についての書物を読んでも「心」を理解できるはずはない。そんなときに彼はハリエット・テイラーに出会った。運の悪いことに夫が彼女にはいたのだが、20年もプラトニックな恋愛を続け、夫という障害が消えたあとに結婚した。

ミルはテイラーとの出会いで変わった。この天才が「人間」にまで覚醒してしまったのだ。そしてこう言っている。「僕のやってきたことはテイラーとヘレン(娘)がいたからできたんだ。」と。将来、自分の愛する人と結婚して子どもができて、やってきたことがそれなりに評価されたときにこんなことを言ってみたいものだ。

誰からも人権擁護の主張は認められなかったが、愛するハリエットが認めてくれていたからそれでよかった。僕もいろいろゼミ代として力んじゃっているが、やっぱりあいつがいてくれるから頑張れるんだ。ミルもそうだったんだと思う。それでいいんだと思う。愛や恋を仕事に持ち込むな、なんていうのは凡人のいうことだ。

数日後の
ゼミ代くん

J.S.ミル。彼もケインズ同様、天才である。まず、3才でギリシア語を学び始めた。ちなみに彼はイギリス人である。7才でプラトンの対話集の大半を読んでしまった。8才でラテン語を始めて、12才までの間に先人たちの書物を読んだ。12才で論理学とホッブスの著作に取り組み、13才では政治経済学の分野で読んでおくべきもののすべてに目を通していた。

彼は父から天才教育を受けていたのだが、こんな教育を受けていればやはり神経衰弱にもかかる。というより、頭に関するものは全てやってしまったがために「こんなことやって意味あるの?」と思ってしまったのだろう。そして、心についての書物を読んだそうだ。
いくら天才が心についての書物を読んでも「心」を理解できるはずはない。そんなときに彼はハリエット・テイラーに出会った。運の悪いことに夫が彼女にはいたのだが、20年もプラトニックな恋愛を続け、夫という障害が消えたあとに結婚した。

ミルはテイラーとの出会いで変わった。この天才が「人間」にまで覚醒してしまったのだ。そしてこう言っている。「僕のやってきたことはテイラーとヘレン(娘)がいたからできたんだ。」と。

もう勝手にのろけててくれ、といった感じだ。僕はそんなこと恥ずかしくて言えない。というより、支えがなくてもどんなことにも揺るがない自分を作り上げて、何かを成し遂げたい。支えなんてそのうちいなくなるんだから。愛する人が自分から離れていったらそいつは何にもできないのか?そんなのはあまりに情けない。

誰からも人権擁護の主張は認められなかったが、愛するハリエットが認めてくれていたからそれでよかった。天才も愛におぼれた。そんなの自己満足に過ぎない。人権擁護の主張は社会や時代にすべきもので特定の女にすべきものじゃない。J.S.ミル、天才も「愛」で血迷ったか。誰からも愛されなくても事を成すことはできるんだ。でも、時代が経ってミルのやったことがやっぱりすごかったということになれば、「先見の明があった!」とかいって相手にされなかった人権擁護の主張の話も美化されてしまうんだから、世の中不平等だ(笑)。まさに結果オーライってとこだ。

けど、人権擁護を熱心に唱えられる人ってやっぱり誰かからちゃんと愛されてる人だと思う。ミルが孤独な天才のままだったら、そんなこと言い出さなかったろう。だって、自分が生きてくことが精一杯なのに、人の権利、それも人類全体のことなんて考えられないよ。

まあ、僕はミルが勉強で神経衰弱して「こんなことやって意味あるのか?」と自分に問いかけ、もがき苦しんで、「それでもこれがおれの生き様じゃ!」といって突っ走っていってくれた方がかっこよかったと思う。そこから人権擁護の主張がでてきたらもっとかっこよかった。「愛されない我々にも生きる資格はあるんだ!」と。そしたら、世の中からも拍手喝采だったかもしれない(笑)。

心の闇は自分で突き抜けた方がより確かなはずだ。結局、最後は自分。
孤独な天才は愛におぼれた。愛とはこの世で一番恐ろしい幻想だ。
そこには何もない。ただの幻。そんなもので自分の成すべき事が左右されるなんて、ばかばかしい。完全無欠の天才なら、孤独に耐えてみろ。

社長

ミルの結婚観は、私と異なっているのか、はたまた似通っているのか…。正直申しましてまだ結論が出せない状態であります。それでも、1つ1つなんとか検証していきましょう。@ミルのように、夫がいる人を好きになるか→好きになるかもしれないし、ならないかもしれない。これは結論でませんでした。まだまだ、自分の人生何が起こるかわかりませんからな。A20年間も文通できるか。→私にはできません。ものすごい語彙力がないとだめなので、ネタがつきるでしょう。20年間も文通が続いたという事が、彼の非凡な才能を証明していますね。でも、同じ事を何回も言っているだけだったりして…。それから、B夫がいる人と一緒に生活できるか。→後が恐ろしくて出来ません。これは、やったらやばい。トレンディ・ドラマなんかは、こういったシーンで盛り上がりますね。殴り合いの喧嘩になったりもします。そして、C夫がいる人と一緒に遊びに行けるか。→これは、できるでしょう。言い訳も多く存在します。たとえ彼女の夫と偶然出会ってしまったとしても、「あっ、どうも。僕、高校時代の同じ部活の先輩でして。久しぶりに会ったものですから、ちょっと一緒に食事していました。」などととぼける事が可能です。あまりに年が離れているのなら、教え子という事にしてもよいでしょう。スリルがありますね。さあ、最後が問題ですよ、みなさん。D結婚するまでは、ミルのように完全に精神的な交際にとどめておけるか→無理です。私は凡人です。3歳でギリシア語を学び、7歳でプラトンの対話集の大半を読みこなし、13歳で政治経済学で読んでおくべき本の全てに目を通したミルのようにはなれないのです。…でも、ミルさん、本当は嘘ですよね。…っね!

付録 社長のHPにある「私の偉人伝」。J.S.ミル語録がありますので,ご参照下さい。

やびん

ジョン・スチュアート・ミルは、優れた政治経済学者であったが、同時に最初の、そして最高の自由主義者でもあった。それゆえ、彼の政治経済学にはその人間性が多分に浸透している。幼い時から父の英才教育を受け、周囲の子供達との関わりすら持てなかったミルを、これほど人間味溢れる人物として蘇えらせたのは、他でもないハリエット・テイラーであろう。ミルとハリエットの結婚はなぜうまくいったのだろうか。何が普通でないのだろうか。私は、ハリエットの夫に対する二人の態度を手がかりに考えていきたい。二人は恋に落ち、互いに愛し合っていたわけだから、夫を邪魔者扱いしてもおかしくはない。しかし、実際はハリエットの夫に対して最大限の敬意を表しているように思える。夫にしてみればハリエットは自分の妻であり、ミルが現れたからといってこの事実が揺らぐものではない。ミルとハリエットは、この夫の立場というものをよく認識できていたのだろう。自分たちの愛を成し遂げたいがために、夫をその地位から引きおとしてはいけない、という堅い決意が伝わってくる。この夫を二人の愛の犠牲者にしてはいけなかったのだ。一緒に旅行したり、一緒に住んだりしても、完全に精神的な交際を守り続けることができたのは、先の決意がどれほど堅いものであったかを物語っていると思う。ミルは、快楽について高度なものと低級なものの両方がある、と考えていた。さらに、正義と結びつく快楽が良心からの承認を勝ち得る、とも考えていた。夫に敬意を表することは、二人にとってまさに正義であったのだろう。そして、高度な快楽を求めて20年間を過ごしたのであろう。このようにミルとハリエットの結婚がうまくいったからこそ、ミルは「自由論」を出版したのだと思う。最後に、こんな立派な二人でも、「旅行や同棲ぐらいはまあいいか」と考えていたのには、ついつい笑ってしまった。

カサポン

ジョン・スチワート・ミルは経済学者だ。残念ながら私は彼の名前すら知らなかった。これを読んで以来、経済学の教科書でしばしば彼の名を見かける。偉大な経済学者であったのだろう。子供のころの勉強内容は、開いた口がふさがらないと言うくらい凄いものだ。しかし、これほど偉大な彼にでさえ、こそこそと行わなければならないことがあったとは、何だかホッとしてしまう。人間とは、完璧ではいられないのか。彼の偉大な野口秀雄氏だって金遣いは非常に荒かったしなぁ。
ミルは、夫ある人、テイラ―と恋に落ち、彼女の夫がこの世を去るまでの二十年間を、文通し、旅行に行き、同居もして彼女との交際を続けた。その二十年間、完全に精神的な関係だけを保っていたと言うのだから驚いてしまう。以前なら私はロマンティックな話だと感動していただろうが、今は違う。なんて可哀想な夫であろうか。夫の死を待たねばならない程、テイラ―には離婚できない理由があったのかもしれないが。テイラーが女性の権利を訴えていたからそうかもしれない。もしそうではなかったら、女性の権利を何か勘違いしているようで腹立たしいが。
さて、結婚に対する私の考えを紹介しよう。とりあえず私の理想は愛に満ち溢れている家庭を築きたいということだ。子育ても二人でして、仕事が忙しいときはお互い家事を助け合って、日曜日は家族で楽しく過ごす。相手が外に居るときも、安心していられるような深い信頼感があって、それをずっと続ける。こんな幸せな家庭をミルのような人に引き裂かれたら、考えただけで悲しくなってしまう。
今まで結婚ときけば、入籍して、一緒に暮らして、妊娠して、親になるというイメージしか浮かばなかったが、何だか最近今までの結婚の内容の一部だけ掻い摘んだような完全に結婚とは言い切れない話をよく聞く。あれは何であろう。そう考えてみると結婚という形が変わってきたのか、それとも、新しい分類ができたのか。何だか社会は随分変わって来たなとつくづく思う。それがいいか悪いかはそれぞれによると思うが、とりあえず、生まれてきた子供のことは一番に大切にしなくてはならない。どうしてテイラ―夫人の娘をそんなに聞分けのよい子供だったのか、感心してしまう。

きのぴー

偉人と呼ばれる人にはとんでもない人が多いが、ミルもそんな一人であった。3歳でギリシア語を学び始めたとは一体どういうことなのだろうか。普通の3歳児はまだ、赤ちゃん言葉をしゃべって、絵本を眺めているくらいだろう。13歳で政治経済学の分野で読むべきものには全て目を通していたなんて、彼は、子供の頃遊んでいなかったのだろうか。休みの日はなく、友達はいなかったと書いてあるが、本当に良くぐれなかったものである。生まれながらの天才はやはり違う。

そんな彼が夢中になった、ハリエット・テーラーとはどのような人物だったのだろうか。こんなとてつもない人と共通の話題が持て、精神的に満足させることが出来たのだから、さぞかしすごい人だったのではないだろうか。

社会主義者というと危ないイメージを持ってしまいがちであるが、ミルは違ったようである。確かに、地代への課税、相続税、労働者の協同組合結成などは今の世の中でも普通である。ということは、ミルの功績はとても大きなものだったということであろう。人生を通じて、知識を追求しつづけたというのはすごい。幼い頃にあれだけ勉強したのに、勉強嫌いにならずに、しかも既に膨大な知識を持っているのにとどまることなく追求し続けるとは・・・。よほど、勤勉な人だったのだろう。

さらに、生涯、一人の女性を愛しつづけたというのもそうそうできることではないのではないだろうか。「私が受けたような損失の後で、人生という宝くじでもう1つの商品を引き当てるといった幸運に恵まれた人などいなかっただろう。」詩人である。本当にかけがえのない人だったのだろうなと思う。もし・・・、という仮定はありえないのだが、もし、ミルがテーラーと出会っていなかったら、ミルはどうなっていたのだろう。鬱病などになっていそうである。人妻なのに最終的には結婚できたなんて、運命の赤い糸というのは本当にあるのかななどと考えてしまう。

モンタの母

ミルは幸せだ。こんなに愛せて、信頼できる人と出会うことができたのだから。人はどんなに強いことを言っていてもやっぱり一人では生きていけない。世界中が自分に非難の目を向けても、この人だけは自分を理解してくれるだろうという人が必要だ。でも困ったことに自分が安心してすべてさらけ出せるような人にはそうそう出会えるものでもない。さらにこの人だ!と思っても、あ、勘違いだった…ということも少なくない。それなのにミルはちゃんと、ハリエットと出会えた。結婚しているにもかかわらず、ハリエットもミルを愛した。しかも2人の関係は死ぬまで続いた。人間同士のつながりってなんとすばらしいものだろうと思わず感動を覚えるが、ここで忘れることができないのはハリエットの夫の存在だ。この夫の立場を考えると、人間同士のつながりなんて、はかないものだと思わずにはいられない。
 人と人との付き合いというのは結局、自分の中で土台にするべきものなのだろうか。私はまだそう思うことはできない。そうすることは危険だという思いのほうが強い。自分のやりたいことや考え方を土台にするほうが確実だと思っている。とは言っても、自分の心というのもまた思う通りにいかないもので、時々自分のすべてをかけてある人のことを思ってしまったりする。しかも、そんな自分がうれしくて仕方なかったりする。きっと、こんなわけの分からなさが人間なのだ。
 結婚観や、人間関係に対する考え方というのは、自分の過去の経験や今の状況によって、変わっていくものだと思う。自分はまだミルにとってのハリエットのような人に出会っていない。あるいは出会っていても気付いていない。いつか出会えることを祈るのみ…。

ルルル

天才、天才…。このエッセイのテーマになっている人は皆そうなので、あえて彼の功績を書く必要はないと思う。7歳でプラトンの対話集を読んだとか、13歳で政治経済学に精通したとか、そんなことはどうだっていい。ミルが幼いころから天才だったゆえに精神が衰弱したということに注目したい。子供らしいこと何一つしないで成長してきたのだから神経衰弱は当然のことだろう。私は子供はうるさくて嫌いだが、子供らしくない子供なんてもっと嫌いだ。「この生意気な…」と思ってしまう。しかしこのことは、一概にミルだけが悪いというわけではなく、その親、周りの環境の影響もあるだろうが。
 この状況はハリエットという女性に出会うことで180度変わる。それまでの暗く閉ざされたところから、明るい世界へ。言ってみれば「人生バラ色」という感じか。彼の妻に対する献身ぶりは盲目的であったとあるが、娘ヘレンにも同じような愛情を注いだということのほうが、私には驚きだ。というのは,子供時代に人間らしい生活を送ってこなかった人間は、自分の子供にも同じような体験をさせる傾向があるのではないか、と私は思うからだ。極端に例えると、子供時代に虐待された人間はやはり自分の子供をせっかんしてしまうとか(もちろん全員が全員そうであるわけないが)…。しかしミルは違った。むしろ彼女がいたからこそ、ミルの不完全だった人格がより完全に、というか普通になったのだろう。
 ハリエットとへレンがミルを変えていった――その人の存在がほかの人の人生を変えてしまうということはちょっと恐ろしくも感じるが、それと同時にうらやましくもある。それが私の理想の結婚観とは恐ろしすぎて言えないが、家族がいつまでも必要不可欠な存在でありつづけることには同意する。

バッハ君

ミルが幼い頃から身に着けた膨大な知識は何に活かされたのであろうか。私が思うに彼が学者として残した一番の功績は世の中を分析するツールに道徳的価値を持ちこんだ事であろうかと思う。それは当時の偽善がはびこる社会において人々に絶望から這い上がる活力を生むのに多大な貢献をしたからである。一見、知識人でありかつ道徳を身に着けているようにみえる。しかし結婚観においてはそれを覆す事実が幾つか有る。彼は既婚の女性と恋に落ち、精神的とはいえ彼女の夫を無視した交際を20年も続け、その死を待つかのように契りを交わしたのである。当時の風潮を考慮しても異質であり、現在でも許される事ではない。また学者という説得力を要求される職に就くものとしてもマイナス要因であるはずである。彼の知識はそのようなことに活かされたのであろうか。挙句の果てに道徳を語っている。しかしそれらの行動を冷静に分析すると、彼が幼少という最も多感で最も後生に影響すると考えられる時期に古代ギリシャやローマの偉大な書物を読みあさっていたことに起因することがわかる。なぜなら古代の書物には人間の不実について記したものが数多くあるためである。その不実を通して人間とは如何なる存在かを明らかにしようとしていたのである。ましてギリシャ神話自体が背徳の掟を率直に謳っている。また違った見方をすると彼は崇高な存在かもしれない。そこには2つの理解がある。一つは、日々の研究と日々の生活の明確な区別の可能性。もう一つは、欲望のままに生きなにものからもの束縛を受けないという生き方である。前者は並大抵の精神では達成されないものである。また後者に至っては、古代の文献の影響が大きいものと考えられ、また自由主義の元源ととることができる。
私の結婚観は彼とは相反するものである。私はマン・オブ・モラルを自認している。故に自己中心的な決断は不徳と見なす。私の事情はどうあれ、相手には何らかの状況がある。それを第一に考え行動することにしている。主体性が無いのではない、自然主義なのである。人は互いに無理をせず、自然の流れの中で結ばれるものであると信じている。私はそれのみを至高と捉える。障害を乗り越えての恋は燃え上がるというのは私には異世界の状況に思える。障害があるのなら諦めれば良い。障害を取り払うのは力のみであり、そこには明らかな犠牲者がでるはずだからである。平和こそ結婚観に必要なのである。
いずれにしろ矛盾したことを同時にこなす図太い精神力とそれを言及されない巧妙な手法は見習う必要がある。

ケインズ

ハンドルネーム

エッセイ

ゼミ代

天才・ケインズの元気の出る資本主義〜共産主義も60年後の政府介入もぶった斬り〜

ケインズの幼少の頃エピソードがある。4歳半にして独力で利子の経済的意味の解読につとめていたそうだ。「利子の経済的意味」とは何か、20歳半の僕にはわからない(笑)。ケインズ少年の天才ぶりは上げていけばキリがないが、なかでも文官試験の経済学試験についてがおそろしい。彼は順位2番で文官試験に合格したのだが、経済学は試験の成績のうちで最低だった。これに対してのちに「明らかに自分より試験官の方が経済学を知らなかったんだ。」と言っている。一瞬、負け惜しみのように聞こえるが、これがそうでないことはその後の歴史が証明している。    また、ケインズはヴェルサイユ条約が生み出す未来についても調印の前から絶望的な予想をしている。ケインズの予想通り、のちにこの条約はヒトラーを生んだ。調印の時点であのような予想を立ててしまうなど、もう天才としか言いようがない。最近巷にあふれる「天才」とやらがケインズに比べると「凡人」にしか見えない。まあ、比べる人があまりにすごすぎるからかわいそうな気もするが。このように天才的なケインズは「国富論」、「資本論」と同様の「革命」を起こすこととなる。「一般理論」の発表だ。彼は「経済に自動調整装置などない。」と断言し、「こうすればよくなる」という方法まで示した。というより、すでに政府による介入が行われていたのでその弁護と説明の書となった。しかしながら、ケインズと政府のアイディアは思うような成果を上げなかった。なぜなら、これが「革命」であったために人々に容易に理解されず、社会主義と勘違いされてしまったのだ。イデオロギー的に不穏当であったために十分に力を発揮できなかったのである。社会主義の生みの親(正確に言うとそうでもなさそうだが)はマルクスであるが、彼は「破滅に向かう資本主義」を説いた。一方、ケインズは「存続の見込みのある資本主義」を説いた。両者とも政府の介入(前者には適当な表現とはいえないが一般的なイメージとして)がでてくるのだが、最終的に目指すところの違いが一般人にはわからなかったようである。このように、マルクスが生み出したものはケインズの革命にとって「反革命的」であった。さらにこれを退治すべく、彼は病気をおしてブレトン・ウッズ体制を成立させた。「資本主義体制を打倒するには通貨を台無しにすればいい。」というレーニンの思惑に対抗するものだった。ケインズは生涯かけて資本主義を守ろうとした。共産主義がいかに誤ったものであるか、共産主義圏の崩壊の50年も前から警告していたのだ。この天才が生涯かけて守ろうとしたものが、いま「政府の失敗」という形で曲がり角にきているという。彼は今の状況を何というだろうか。「僕はそんなこと書いた覚えはない。『経済が回復するまでどのくらい【異例の】政府支出を行うのが得策か』とは書いたけど。」と言うかもしれない。凡人の僕の勘が正しければ。ケインズが間違っていたのではなく、それを使った数多の凡人たちが間違っていたのではないか。僕にはそう読めたのだった。

純平

ケインズの人生を追って行くうちに見えてきたものは、やはり権丈先生がおっしゃっておられたように、彼が世俗の、実に俗っぽい思想家であったということに尽きると思います。 わたくしは彼の"一般理論"という思想については、存じておりましたが、彼がイートン校時代に、髭をたくわえ、ボートを漕ぎ、手ごわい論争家であったこと、文官試験の時、経済学の成績が悪かったのを試験管のせいにしたこと、ケンブリッジで思想家としての活躍の前に、ビジネスマンとしての活躍があったことは存じてもおりませんでしたし、彼の肖像写真からは、予想すらできませんでした。 今世紀はじめイギリスの学界を支配していた新古典派経済学という体系を打ち破り、50年以上信奉される理論を打ちたてるには、象牙の塔にこもってひたすら研究を続けるような人生では無理なのかもしれません。 ケインズは経済学者の資格として、人間の持つ全ての性質や制度に関心を持っていなければならないとしています。この思想にも、象牙の塔から脱しようとする彼の生き方が窺えると思います。 経済学という学問を考える時、ケインズのような姿勢で臨むのが正しいのかもしれません。 なぜなら、経済学が現実社会と密接に関わりあっている学問であるからです。 経済学の理論の正否は現実があきらかにしてくれます。経済学におけるこの特徴をケインズは自らの著書 自由放任の終焉 の記述内容と同じように世界経済が大不況に見舞われた時痛切に感じたことでしょう。

きのぴー

これまでに何人かのすごい人の自伝を読んだり講演を聞いたりしてきたが全員に共通していると思うのは頭が良いことと時代を先取っている事である。ケインズもそうであった。子供の頃から頭が良く七歳にして経済学者の父に「一人前の愉快な話し相手」と認められてしまい二番の成績で文官試験に合格してしまった。このときに既に経済学の試験で未来を見通してしまっていて自信を持っているところがなんとも言えない。さらに景気循環の解明に取り組み、また、「一般理論」を生み出した。他の人と同じ時代に生きているのにどうして彼には先のことがわかるのだろう。私には学者=がり勉でくらいというイメージがあるがケインズはこんなにすごいのに明るかったようだ。これも自信がそうさせるのであろうか。そして大変な美人であったバレリーナと結婚ということまでしている。経済学者とバレリーナ。不思議な組み合わせである。余計な御世話かもしれないが彼らの会話は弾んだのだろうか。しかもどうやらケインズは男色家でもあったようではないか。頭が良い人は良くわからないと良く言うが彼はその典型であると思う。さらに彼は実業家でもあったようだ。先見の明があるのだから事業をやっても上手くいくのは当たり前のような気もするが投機も成功し、当然経済学者であり、劇場まで建ててしまうなんて「天は二物を与えず」というのはうそなのだろう。ケインズ自身が述べているが「経済学の大家は数学者、歴史家、政治家、哲学者を相当程度かねなければならない」そうである。これらは後天的なものなのであろうか、いやたぶん先天的だろう。生誕百年以上たっても全世界で有名人なのだからこんなにすごい人でもなんの不思議もないがやはりすごいと思う。ここ数年不況が続いているが不況からの素晴らしい脱出手段を発見している現代のケインズはどこかにいるのだろうか。こんなことはありえないのだがケインズなら今のこの不況をどうやって乗り越えていけば良いのか、この謎を解くことが出来るのだろうか。

やびん

ケインズが生き貫いた1883〜1946年は二度の世界大戦や世界恐慌があり、確かに社会が大きく変化した時代であった。しかし、この時代に生きた人達が皆、偉業を成し遂げたわけではない。ケインズ自身がその時代の社会を鋭く洞察したからこそ、後世に名を残すことができたのだろう。「1920年代のイギリス社会は投資者階級、企業家階級、労働者階級という三つの階級から成り立っていた」とケインズは捉えている。企業家階級と労働者階級を活動階級と呼んだのに対して、投資家階級を非活動階級と呼んだ。投資者階級とは、実際の経営者の地位を離れ、金利生活者となった人達である。そして、以前は投資者と企業家は同一人物であったのに、投資者が能力のある人に経営を任していく傾向があることをケインズは見出した。つまり、ケインズは「資本と経営の分離」を指摘したのだ。1925年、イギリスはチャーチル指導のもとで金本位制度に復帰する。この際には、「投資者階級にのみ利益をもたらし、イギリス社会全体にとっては利益を損なう政策だ」と激しく批判した。このように、ケインズは社会に対する認識を基盤にして経済的・政治的問題を解決していったのだ。こんなケインズには知性という言葉がよく似合う。絶えず変貌する社会を鋭く観察し、問題点を見つけ出し、論理的に解答し、自信を持って主張する。学者にとって重要な、この一連の流れをまさに実践した人物である。しかも彼は学者だけでなく、雑誌の編集者、政府の高官、経営者、バレリーナの夫など多彩な顔を持っていた。彼は自らの知性を信じて行動した。「労働者は知性がないから企業家になれないのだ」とか「投資者は知性もないのに親からの財産で豊かな生活をし、社会の指導者になっている」とあっさり言ってのけるところからも、彼の知性に対するこだわりが感じられる。伝統的な経済理論は当時では一般的だったはずである。それを改めて作り上げた自分の理論に「一般理論」と名付けるとは驚きである。

ルルル

ケインズは神経質で変った人物であったにちがいない。根拠は彼の顔と、人間の掌に興味を示していたというエピソードのある。「面長に三角顔、口ひげ、ふっくらした唇、おまけに期待外れのあご」ときた。私は試しに似顔絵を描いてはみたものの、まるで想像がつかない。そして私は別に人相見でもないし、これは全く説得力がない。正直言うと、前者は根拠というより私の直感である。では、後者の方の理由はと言うと、掌というのは瞳と同様、その人間の性格、人間性が最も現れるところだろう(目あるいは手は、それによって会話をすることができるし)。ケインズはその掌だけでなく、爪まで見て分析をした。人間の表面積の何千何万分の1にしかすぎない部分を見て、その人間を判断してしまうのだ。これを神経質、いや変った人物と言わずしてなんと言おうか。なぜこんなことから書き出したかと言うと、何の知識のない私があのような難解な文章を読んでも、さっぱり理解することができなかったからだ。ただ字を読むだけではなく、その時代背景まで思い描くことができなければ、文章は読めたものではない。「経済学者の大家は…数学者、歴史学者、政治家、哲学者を兼ねなければならないのだ。」と彼は述べていたが、非常に納得させられた。経済学者の大家に限らず、このことは誰でも当てはまることなのだろうと思う。ただ、それをどこまで極めるかがが異なるだけなのだ。「経済学者」と言うと、何か固く機械的なイメージがする(数学と結び付けてしまうからだろうか)。特にケインズは”超“が幾つもつくような経済学者だ。彼もそんなタイプだろうと私は考えていたが、文化、芸術の振興を図っていたという彼の一面を見て、”人間“を感じた。また、何よりそれを感じたのは、平和を必死に謳っていたことが『平和の経済的帰結』の一部から伝わってきたことである。人道的平和を願っていたという彼に、機械的という言葉は当てはまらないだろう。偏見というのはイヤなものだ。もっと柔軟な考えを持って、物事を見極めていく必要があるということを感じた。

CC

ケインズについて、私は経済学者であることぐらいしか知らなかった。彼に対する知識がなさ過ぎて、感想も書けない状態だった。そこでさっそく本屋に行って、伊東光晴著の「ケインズ」を立ち読みし、彼について感想を述べても恥ずかしくない程度の知識を得てきた。失業者が大量に発生していた時代、自由放任主義の資本主義を批判して、政府が国民に大きな働きかけをすることの重要性を打ち出した。それは、その当時の政策と反していた。社会の方針を変える人は皆そうであるが、ここに私は彼の偉大さを感じる。今までと全く違うことを閃き、それを社会に打ち出すということは、並大抵の人にできることではないと思う。これができるには、学問においても、社会や人間の心理においても精通していなければならない。実際彼はそうであった。彼はもちろんケンブリッジ大学出身の一流の経済学者であった。大学内でも優秀な生徒であった。学問上のみで留まらず、実際にビジネスもしていた。そしてその上、彼はブルームズベリーという、後にイギリスの芸術の世界における基準を定めることとなるサークルにも所属していた。つまりケインズは、一方では限りなく世俗的に活躍して、もう一方では現実に目を向けない反世俗的な仲間たちとワイワイやっていたのである。これを彼なりにこなしてしまうのだからすごい。社会に影響を与える人は、何事においてもスペシャリストなのであろうか、可能性の幅の広さにただ驚くばかりであった。ケインズを想像する。誰からも独立した、一匹狼そのもののようなイメージが浮かぶ。例えば、19世紀後半を代表する経済学者マーシャルはケインズのケンブリッジでの師であったのみならず、彼を子供の時からかわいがっていた。しかし、ケインズは幾度となくマーシャルについて、ばかげた人間だったと言っていた。正しいと思えば周りがどうだろうと、しっかり自分の意思を尊重する。独立自尊、正にこの言葉を具体化したような人物だ。

社長

ケインズの考え出した経済理論は、現代の我々にも強い影響を及ぼしている。この度合いは、数々の歴史的に有名な政治家、軍人が、後世に与えた影響を、ある意味においては、上回っているように思える。例えば、現在の日本では、景気回復のためという名目で積極的な赤字財政を容認しているが、この経済政策の考え方は、もとを辿るとケインズの理論を拠り所としている。すなわち、財政支出を行えば、当初の財政支出に加え、それによって直接間接に所得を得た人々の消費も増加するため、当初の財政支出以上の需要創出効果(乗数効果)があると考えているようなのだ。しかし、この考え方は、極論すれば労働者を雇わなくても金をただばらまけばよいことになる。実際、ケインズ自身が、「失業者を雇い、穴を掘って埋めさせるのも意味がある。」と述べている。この一言は、今も政治家によって都合よく解釈され、自己の選挙区へのバラマキの根拠となってしまっている。そのため、新古典派の経済学者からは、「ケインズ的な考え方は、政府の無駄遣いを拡大させ、深刻な財政赤字の問題を引き起こす。」といった批判を受けている。だが、私は、政府が公共投資を行う最大の理由は、景気刺激効果ではなく、遊休資源や失業者の有効利用にあるほうがよいと考えている。景気刺激効果が全くなくても、せっかく貴重な労働力や設備が、不況で使われずに余っているのだから、それらを積極的に使って有用なものをつくれば、それは意味のある事だと考える。森の手入れをして自然環境を守るために人手を使ってもよい。便利さも自然環境も含めて我々がよいと思う社会をつくっていけばよいのではないだろうか。GNPなどの経済指標のみにとらわれすぎることをやめると、ケインズの理論がさらに広がるような気がする。

J>S>B

マン オブ メリとハリそれがケインズについての印象です。全く素晴らしい人生です。 しかし彼は何のために経済を分析し、論を展開したのでしょうか。恐らく自己の知的好奇心を満たすためではないでしょうか。それと同時に時代からの要請があったからでしょう。あるいはその逆とも考えられます。世の中で最も荒廃した環境を持ち、且つ改革の必要が多分に存在していたのが経済学であったのかもしれません。いずれにしろ意図したとはいえ結果として現状を打開し多くの人を救ったという功績は賞賛せざるを得ません。しかし天才という言葉を当てはめるには疑問が残ります。ケインズが突出した才能と感性を持っていたことは疑いの余地がありませんが、天才の偉業は永久不変の価値観によって鋼鉄のごとく守られているものです。経済学などの学問の大半は日々進化し続けています。ならば例え長い年月を要してもいずれ過去のものを覆す理論が出現する可能性が高いのです。また世の中は常に変貌を止めないことや、時が若しくは時のみが明らかにすることもたくさん存在します。ケインズは経済学の発展の歴史において稀にみる大きな歯車であったことは紛れもない事実ですしそれは永久に普遍ですが天才では有り得ないのです。それにしても素晴らしい人生を送った人ですね。心身ともに充実させる術を自ら見つけ実践しています。広く深くにわたって博識でありそれらを愛していることは人として素晴らしい。博識であったからこそ愛せるのだとも感じます。また生きる姿勢にも憧れを感じます。自分の考える正道を貫き、疑問を感じる存在にはそれが主流であっても徹底的に反駁することは常人には困難なことです。自分の思考が常に正しいとは限りませんが誤りを指摘してもらうことが発展につながることは明確です。私の独断と偏見でものを申しますとケインズの生きる哲学は常に逆説のものであると思います。たとえ理解していても敢えて逆からたどっているのだと考えられるのです。確かにその方が本質が見えてくることが多いかもしれません。しかしケインズには盤石なる広い知識があることを忘れてはなりません。私も見習う事がたくさんあると痛感しました。 私とケインズと程度の差はかなりあれ、基本姿勢が似ていると感じるのは自分だけでしょうか。

モンタの母

多才な人だ。すばらしすぎる。経済学者として、ケンブリッジ大学の学監をつとめながら、数学的確率論に関する深遠な書物を著わし、また国際的な金融・商取引によって莫大な財産を築きあげた。さらに生命保険会社の社長職をやってのけ、国際外交問題においては安定した大黒柱の役割をつとめた。古典愛好家でもありながら、劇場を経営し、またイングランド銀行の頭取にもなった。そして妻選びでは、学問のある女性ではなく、ロシアの美人バレリーナを選んだ。
 彼の偉業のいくつかを紹介しただけでこんなである。細かく見ていったら本当にキリがないだろう。何でこんな人が存在しうるのだろうというのが素直な感想である。この間、新聞にアメリカの10歳の大学生という子が載っていたがあの子もやっぱり、すごいことをやらかしてしまうのだろうか。人間の脳というものは本当に不思議だ。
 それでも、と思う。こんなに何でも分かってしまうように見える人が存在したにもかかわらず、相変わらず経済学という学問は分からないことだらけのままである。相変わらず、世界では失業が存在するし、今のアメリカの好景気が続く保証はない。また、日本の景気回復のためにはどんな対策をとればいいのか、明確な答えは見つからない。ケインズは経済学の研究はやさしいが、優秀な研究者がほとんどいないのは経済学の大家は種々の才能のたぐい希な組み合わせを要求されるからであろうと言う。経済学がやさしいというのはまだ、私の脳で理解できる範囲ではないが、あらゆる才能が要求される学問であるというのは分かる気がする。数学、哲学、政治、歴史、などに精通している必要があるし、さらに人間のあらゆる場面での行動を知るために人間の性質というものをしっかり把握しなくてはいけない。これは、想像するよりはるかに難しいことだろう。"経済学"というものがすべて解明されるときはいつかやってくるのだろうか。

99/04/12    福沢諭吉

ハンドル名

エッセイ

ゼミ代 私は生き生きとした幕末から明治初頭の歴史が好きであったが、実のところ福澤先生についてあまりよく知らなかった。慶應義塾の創始者であり、数々の啓蒙活動を通して日本の国造りに貢献されたということを漠然と知っていた程度である。

「福翁自伝」を読んでいくと金銭の苦労や酒好きなところ、アメリカの少女とのツーショット写真の話、攘夷論者による暗殺を恐れる様子など学問分野だけしかあまり知られない福沢先生のことが知ることができる。読んでいて思わず笑みが浮かんできてしまう部分である。福澤先生のエピソードを知れば知るほど人間的に面白く魅力ある人物であったことがわかる。

ところで、福澤先生の「横浜横文字わからなかった事件」があるが、それに対するリアクションには福澤先生の知的好奇心のすごさをあたらめて感じる。その際、村田蔵六を誘っているが村田は断っている。結局、村田はヘボンについて英語を学ぶのだが、医者から転じて日本陸軍の基礎を築いた村田の知的好奇心をもってしても福澤先生には瞬発力では勝てなかったようである。

福澤先生は洋学者として欧米と日本の差をよく知っていたために、幕府側であろうと薩長側であろうと攘夷論者は大嫌いであった。友人であった攘夷論者になったと思った村田を福澤先生は「気でも違えたか。」と遠ざけたが、 ここで私と福澤先生の「村田蔵六観」の違いがある。

村田も福澤先生同様、洋学者であったから攘夷がいかに無謀であったかはよくわかっていたはずである。その彼が攘夷に転じたふりをしたのは「外国人をうち払う」というわかりやすいイデオロギーによって武士や民衆のエネルギーを結集させ、最終的には倒幕へともっていくことを目的にしていくという長州のねらいを感じたのではないか。いずれにせよ、本当の攘夷論者ではなかったのではないだろうかと私は思う。

そして当然、攘夷のふりをしていた人々による新政府は福澤先生の望んだ開明的なものへと変わっていった。福澤先生は新政府に仕官するように何度となく言われたが、結局最後まで在野で国民の啓蒙につとめた。村田が軍というシステムを整えることで 日本を欧米列強に対抗できる国にしようとしたのに対して、福澤先生は書物を通して制度を紹介し、国民から変えていこうとしたのである。

我々は何かというとすぐ「政府が悪い。システムを変えよう。」と言いがちだが、福澤先生の生き方を見ていくとその考えが果たして正しいのだろうかと思わずにはいられなくなる。

ルルル 私は慶應義塾に入ったにもかかわらず、この2年間ロクに福沢の本を読まずに過ごし、福沢のことを何も知らずにここまできてしまっていたことに、はたと気づいた。果たして、私は塾生と言えるのだろうか。

今までの私の"福沢"のイメージといえば「1万円札」と「慶應義塾の創始者」といった具合だ。今まで読んだことのある本と言えば、『学問のすすめ』ぐらい。実はそれも半分と読まなかった。だから今回が私にとって、福沢初体験であった。

少し肩に力を入れて読み始めたものの、現代仮名遣いのせいか、意外とスンナリ読んでいけた。そして面白い。いや、人の人生を面白いなど言ってはならないかもしれないが、やっぱり面白いし、福沢自身が「愉快なことばかりだ。」と言っているので良いとしておく。外科手術を見て卒倒したとか、暗殺の心配ゆえの疑心暗鬼とか、そんなあまりにも赤裸々な文を読んでいく内に、私の中で勝手に神格化されていた福沢が、いつしか人間化されていった。

しかし、実際に福沢が生きていた、未だ封建的支配が残っていた時代に、「天は人の上に人を造らず・・・」と言って人々に心の拠り所を与えた福沢は、"神"に近い存在だったかもしれない。神的な要素と、ものすごく人間的な要素を持つ人物。現代ではそんな人物を思い浮かべることはできないものだ。時代背景が全く違うから、こんな仮定はナンセンスで説得力のないことだけれど、「もし福沢が生きていたら。」不況、学級崩壊など多くの問題を抱える現代の日本に、何か言ってくれそうな気がすると思うのは、私だけだろうか。

この自伝を読み終わってから、私に部屋のどこかにしまってあるだろう『学問のすすめ』を、探しだした。きっと、前とはは違う気持ちで読んでいけそうな気がする。

モンタの母 「福翁自伝」を読んで、まず興味を感じたのは、もし、福沢諭吉がこのしっかりとした価値観をもって、近年の現象を見たら、どう感じるだろうか?ということである。

まず、うらやましがるであろうこと。Eメールの台頭である。毎度の船便で、留学中の息子と連絡を取り合っていたというほど、親子のつながりを大切にしていた福沢だから、海外ともこんなに気軽に連絡を取れるEメールがきっと喉から手が出るほど欲しいだろう。

次に、大変驚くであろうこと。現代の若者のお金に対する価値観である。お金があったら使う。なければ、使わなければ済むこと、断言する福沢には、今時の若者の金銭感覚やお金の重要度の高まりは、驚きに値することに違いない。福沢にとって援助交際なんて、はるか彼方の星の言葉なのだろう。

そして、悲しみ憂うであろうこと。小学生が自分の身を守るためにナイフを持ち始めたことである。士族でありながら、自ら刀を捨て去った福沢にとって、刀など世の中から消えて望む通りとほくそ笑んでいるのに、時代は巡って、小学生が刀の代わりにナイフを身につけ、大人が慌てている昨今を見たらきっと、何でそうなるの?!と悲しむだろう。

それから、現代の若者に同情するであろうこと。学ぶことが面白く感じられにくいことである。役人になりたかったわけでもなく、お金が欲しかったわけでもなく、純粋に学ぶことに魅力を感じていた福沢は、今の若者がそう感じにくくなっていることをきっと、かわいそうに…と思うだろう。(いや、もしかしたら、日本の行く末を不安に思うのが先かもしれない。)

ここで、1つ気になることがあるのだが、もし、福沢があらゆる誘惑の多い現代を生きていても、その価値観は変わらないでどっしり構えていられるのだろうか。まあでも、そんなことは、考えても仕方のないことで、福沢は、 自分に合った、自分を必要とする時代を生きるべくして生きたのだな、幸せだなと思う。

CC 「かっこいい」。それが福翁自伝を読み終えて、最初に浮かんだ一言であった。福沢自身この表現を好まないかもしれないし、また、なにか外見的な意味合いに受け取られてしまうかもしれない。しかし、そういう事を言いたいのではない。ものすごい努力に対する尊敬の意味や、合理的かつ進歩的な考え方や事の必要性を敏感に感じ取る鋭さに対する感激や、はたまたいたずらな面、自分自身の欠点を赤裸々に語る面白さは、この「かっこいい」という一言以外に思い浮かばない。

その中で、もっとも感銘を受けた、彼の考え方に一先ず焦点を当てて感動を述べていきたい。 福沢の中に、何か1本筋が張って、ひねくれる事のない意志を感じた。判断基準といってもよいかもしれない。何を決めるにしろ、それに基づき行われ、正しいと思えば、それを貫く。子供の留学費と交換に授業を引き受けるか否か、時事新報を発行するか否か。かわいい我が子のためには、身を削ってどんな事にでも励む親もあろう、他人に猛反対されたら、戸惑ってしまう人も多くいよう。そういう場面において、かたくなに自分の意志を貫き通せたのは、いったいどのような理由からか。答えは本書にも書いてある通りだ。自分の行う何事にも、責任を持っていたからだ。偶然にも私の信条と一致している。喜ばしい限りだ。 この責任感を激しく引き立てたのが、すごい努力であり、またその努力を促したのが、新しい事の必要性に敏感に反応する彼のセンサーであり、それが、また、福沢を成長させ、彼に進歩的な考えを持たせた。好奇心と努力と責任感の絶えざる循環とでも言おうか、彼の偉大さにただただ驚くばかりだ。反面、自分の欠点を赤裸々に語れる素直さ、もしくはここにも責任感が存在するのか、この点は面白く、気さくさに感激した。

とにかく人生そのものが面白く、かっこいい。もし、彼が今の時代に生きていたら…、想像は尽きることなく膨らんでいきそうだ。

きのぴー 福沢 諭吉は1835年、九州中津藩の小士族の家に、8人兄弟の末子として生まれた。大阪で生まれ3歳までその地に育ったために、中津に移ってからも他の子供などと交わることなく、孤立していた。幼少の頃は、漢学を学んだが、21歳で長崎に行き、蘭学を学び始めたところ、上達が早く、世話をしてくれていた、奥平 壱岐にねたまれ、大阪に行き、緒方 洪庵の下で学ぶ。25歳で江戸に行き、慶應義塾の起源となる小さな蘭学の家塾を開く。けれどもその翌年、オランダ語が外国人との会話に役に立たないことを知り、独学で英語を学び始めた。その翌年咸臨丸に乗り、初めてアメリカへ行く。帰国後、英語研究に専念し、初めての出版物となる、「華英通語」を翻訳して出版した。

1862年には、ヨーロッパ各国へ使節として行った。帰国時は攘夷論が真っ盛りであったので、福沢は身を慎み、著書翻訳に努めた。1867年、再び渡米し、東部の諸都市を見て回った。これらの洋行で西洋の文明を目の当たりにしたことはその後の彼の人生に多大な影響を与えた。1868年、幕府が倒れると、幕臣をやめてすぐに帰農した。彼の開いた慶應義塾は、日本で初めて生徒から授業料を取り立てた。

1871年には、慶應義塾は芝から三田へ移り、にわかに大きくなると同時に、入学生の数も次第に増えていった。この頃から、福沢はたびたび政府より出仕を命じられたが毎回断り、慶應義塾で教鞭をとりながら、「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」などを著した。これらの著作は知識人をはじめとする多くの国民に読まれた。彼の著作はこの他にも多数あり、様々な分野の本を執筆していた。1882年には、「時事新報」を発刊し、自身も加筆した。、晩年、「福翁自伝」「福翁百話」などを著した。生涯、民間の一平民として、また、独立自由の精神を徹底させ、1901年、65年の生涯を終えた。

純平 福沢諭吉が常に新しいものに挑戦し続け、既成の概念に懐疑的であろうとし、時代の先駆者たらんとしたことは閉塞した現代日本の 現状を憂れう私にとって大きな感銘を与えうるものであった。 国家も社会も さわらぬ神にたたりなしで既成の概念や与えられたものにしがみついている現代日本に、福沢の言う一身独立して一国独立す というテーマは古くて常に新しいと思う。

一回しか生きれない人生で、よく生きようとすれば、自分に責任を課すことしかないということであろう。 この福沢の思想が私を含めた慶應義塾塾生達に受け継がれているだろうか。 私の見る限りそれは甚だ疑わしいものである。 塾生達は往々にして、慶應に入ってきたことに対し、満足感と優越感に浸ってい ること が多い。この満足感と優越感は一身独立をせず、慶應という自分以外の力に頼 り、 自己を権威つけようとするところからきているのではないか。 塾生全てが外から権威を与えられず、自分一人の足で立ち、自らに権威を与えるものは自己自身でしかないと覚悟し、丸腰の自由活達な人間になることが福沢の思想の継承者たるに足るといえるのではないか。  

一身独立し自由活達であるためには、福沢のようにヘソまがりであるべきでは ないだろうか。 福沢は子供の頃、藩主の名が書いてある文書をふんずけて兄三之助に叱られて以 来、神社 のお札を踏み、便所にもっていったり、稲荷の社の中にはいっていた御神体めい た石を取り替えたり したという。 真に、ヘソまがりな行動ではあるが、既成秩序に挑戦し、自由であろうとし、そ の正しさを証明するため 自ら実験し、確認したその態度は一身独立、自由活達そのものである。 こういったヘソまがりな行動は学問を行う上での基盤となりうると私は考えてい る。ヘソまがりであれば、 問題意識を固定しない、あるいは既成のものによってものごとをみることをしな い心の作用を活発にする ことができると思うからである。

一身独立し、ヘソまがりな視点を持ち、自分の内面にある自由でヘソまがりな思考をさえぎるものとの 格闘に学問の本質があり、福沢の思想の根幹があるのではないだろうか。

やびん 福沢諭吉先生は、今日の紙幣にその像がのるほどの人物だから、おそらく立派であっ たのだろうと思っていた。そしてこの本を読み、先生は確かにある信念をもっていた のだと認識でき、また江戸末期から明治初期にかけての時代変遷を知ることもでき た。

「老余の半生」の章に、先生が政府の役人にならぬ理由が4つ述べられている。そこ では門閥制度をきらうこと、立身出世を望まぬこと、開国文明を望むこと、品行を高 く保つこと、独立心を持つこと、万事に無頓着なこと、不平を言わないことなど、先 生の信念や人柄が集約されている。しかも、これらはお金の使い方や人とのつきあい 方においても徹底している。もう驚くしかない。当時の少なからぬ人々が先生のこと を「油断のならぬやつ」と評していたらしいが、とても納得できる。もし先生が側に いたら、自分もやはり「内心はどうなのですか」と尋ねてみたくなるだろうと思っ た。と同時に、そうしたならばとても説得力のある答えが返ってくるにちがいない、 とも思った。

福沢先生についてさらに驚くべきことは、その勉学への意欲であろう。漢学からはじ まり、蘭書翻訳、英書翻訳、化学、経済、政治とまさに際限がない。 先生は学問を修めるために故郷を離れ、長崎や大阪へ行き、非凡な才能があったにも かかわらず、寝食や身なりを忘れて原書写本会読に取り組んだ。 先生を取りまく当時の人達が、そのひたむきな姿勢を自ずと感じとれたからこそ、海 外へ行く機会もうまれ、慶應義塾も盛んとなったのだろう。

福沢先生は今まで述べてきたような意味で奇人だったが、お酒には目がなかったり、 いたずらをしたり、病気を煩ったり、暗殺を怖れたりなど一般人の側面もあると知り ほっとした。また、当時の人達の例にもれず、身分的差別感を有していたことも知っ ておく必要があると思う。 この本から学ぶ点があるとしたら、それはわずか数年間で蘭語や英語を習得する方法 ではなく、「大いに恥ずることもなく大いに後悔することもなく、心静かに月日を送 る」ことだと思う。福沢先生のまねはできなくても、まねをしてみようとすることな らできるかもしれない。

社長 福沢の思想が、今日の日本に及ぼした影響はなかなかに大きい。影響のひとつにあげられるのが、学歴社会の肯定である。生まれながらの貧富の差や身分の差によって、その後の将来が決まってしまう封建社会に福沢は疑問を抱いていた。それよりは学問に励んでいるものが、希望の職に就くことができ、お金も稼げるという社会のほうが良いだろうと彼は考えたのである。今でこそ、農民の息子が東大に入り、その後官僚になって日本を動かす法律を作ることも可能であるが(東大に入るだけの頭があり、なおかつ努力しなければ駄目だが)、福沢の幼少時代においては考えられなかった事かもしれない。農民の子は農民なのだ。漁民の子は漁民なのだ。豆腐屋の子が官僚になってはいけないのだ。この日本人の大きな価値観の変化に、福沢は関与したのである。

それにしても、福翁自伝を拝見していると、中学生時分の頃に私が抱いていた福沢像とは違うことを感じる。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず。」なんて言葉は、『人類は皆平等なのですから、身分や階級をみんななくしてしまおう、所得もみんな同じにしちゃおう』なんていう意味だととらえていた。しかし、福沢が言わんとしていたことは、機械の平等ということだったようだ。学問にしろ何にしろ、機会が与えられているのに自分を高める努力を怠った人に対してまで、福沢は甘い言葉を投げかけているわけではないようである。(私も権丈先生にホームページを作るように要請されたが、何とかなるだろうとのんびり過ごしているうちにもう4月の10日である。今、なんともならない事に気づき呆然としている。福沢先生もこのような学生には閉口されるであろう。)

しかし、福沢は自由主義経済がもたらす結果的不平等はやむを得ないと考え、無視していたわけでもない。厳格な身分制社会と比べて、より上位の生活条件や社会的地位が、原則的に万人に到達可能とされている社会状況においては「怨望」の発生が高まると彼は述べている。この「怨望」の回避に有効な策(例えば、富者に対して慈善事業を勧めている。)は、現代社会に生きる我々も真剣に考慮しなければならない問題である。結局、一番感じた事は、私も福沢のようにより良い社会はどうあるべきかを模索しようということである。

正一くん 告白。私は慶應義塾大学に入学しながらも福沢諭吉がなぜこうも有名なのか全く 知りませんでした。福翁自伝を読みその思想家として彼の影響が広まるのは納得 してしまう。まず彼のすばらしさはその人間自体のスケールの大きさにある。好奇心旺盛にして彼はお金、官職といった世間体を全く気にせず、自らの信念を貫く ことのできる人物であった。また初の渡米の際、そのために自ら積極的に申し出 て行くなどの行動力にも驚嘆してしまう。そしてさらに私を驚かせたのは、彼の 情報収集能力とそこからの判断力・先見の明である。おそらく彼は日本の中にあ って蘭学者などから相当積極的に情報を集めていたと思う。また西欧の訪問中で も正確な国際関係を把握している。彼がいち早く英語学習の必要性を見抜き、勉 強していったのは彼の能力の象徴的な部分だ。彼は当時日本において極まれなグ ローバルな視野を持っていた人物に違いないと思われる。 私が思うのは日本においてグローバルな、広い視野で物事を見つめる人物は現在 の国際化した今でもそう多くはないだろうということ。そう考えるともし彼なら ば今の日本の状況をどう思うだろう。もう一つ思うのは彼のように行動力溢れた 人物は今の日本社会の若者を見てきっと悲しむだろうということ。今日本の若者 達は一つのことに一生懸命取り組む人間が軽視されている。一方で社会のストレ スから逃れようと力の抜いた何となく生きていることがうまい生き方のように思 われがちである。福沢先生のような学生時代を謳歌し、その一方でしっかりと物 事に向かう姿勢が我々の世代に必要だ。

しかし福翁自伝が入学祝いに配られる理由が分かったきがします。ほんとにすばらしい本でした。