●井原哲夫教授・著書

愛は経済社会を変える

<内容紹介>
はしがき
 「愛が分からなくて経済を語る資格があるか」。 ある日、同僚の女性教授にどやされた。
 「やさしい気持ちがあって初めて血の通った経済政策が打ち出せるのだ」と理解したが、そのときは 「愛」と「経済」程縁遠いものはないと考えていた。
 経済は人間の利己心を前提として成り立っている世界だし、愛はむしろ利己心とは反対の極にあると思 ったからである。
  「待てよ」とひっかかるものを感じたのはその日の帰りの電車のなかである。きわめて多くの人が愛についてなやみ、迷い、そして語ってきたではないか。諸々の宗教 は愛のすばらしさを説き、信者に実践 させようとしてきたではないか。母親の子供に対する愛をはじめとして、愛の行為は日常的にしょっちゅう見られるではないか。 個人的にも、困っている人を助けてあげたいと思う衝動にかられることがよく ある。
 今兄注目を浴び、日常的にみたり感じたりするのだから、経済や社会の姿を形づくるうえで重要な役割 を演じていないはずはない、と考えたのである。結果としてこれは正しかったと思うが、 そのときには 相愛と経済や社会を結びつけていいのかわからなかった。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」−これはイエス・キリストの有名な言葉であるが、愛とは「自己を犠牲にして他を生かすこと」と解釈されることが多かった。 そして、このような行為は人間社会をうまく機能させていく上で重要だとされていたから、社会的評価は大変高いものがあった。
 「愛はとうとう鋳物だ」という先入観が発想をさまたげていたようである。筆者の本職である経済学は、人間の利己心を前提にしているからなおさらである。 経済学から離れて観察したとき、人間はけっこう愛に満ちた存在だと感じていた。災害が起きると、義援 金や山のような援助物資が届く。電車ではお年寄りに席を譲る。席を譲ると自分が我慢しなければならな いというように、愛の行為には自己犠牲をともなう。利己的だとされる人間が見ず知らずの人に親切に するのだろう。何ら見返りを期待しないで。
 ここがわからないと、愛との関連で人間の行動をうまく説明できない。「人間そんなものなんだ」といってしまうことは簡単だが、それでは筆者の思考のうえにのせられないから説得力を欠いてしまう。
 人間には「うまいものをたらふく食べたい」との利己的欲求が備わっているが、愛もこの種の欲求と同じ性格ものとして認識できれば大変都合がいい。しかし、利己的欲求の充足と自己犠牲は正反対にみえるのだから、この作業はそう簡単ではなかった。
 そのうち、『「豊かさ」人間の時代』(井原著、講談社現代新書)のなかで、「身内」という概念について書いたのを思い出した。人間は「ほめられたい」という強い欲求の持ち主である。それは自分とは限 らず、身内がほめられてもうれしい。巨人ファンにとって、巨人は身内だからこそ勝負に一喜一憂するのだ。 テレビ中継を見て巨人が勝ったのを知ったあとでも、繰り返しスポーツニュースをみる人がいる。 あれは身内がほめられている様子を何度でもみたいからである、といった内容である。
 これをもう少しふくらませればいいと考えた。母親は子供を身内だと思っている。愛しているといってもいい。そして、身内が好ましい状況になれば親はうれしいと感じる。この状況を作り出すのに援助が必 要だと思えば、何かと与える。これは自分の欲求を満たすための利己的行動だと考えていいわけだ。
 テレビで不幸な状況を見て身内意識を感じれば、この人が救われることが自分の満足度を上げることにつながるからこそ、人は援助しようという気になると考えて矛盾はこらない。まさに、身内意識を感じた ときにこそ愛が発生しているのだ。あとでわかったことだが、愛の行動は利己的欲求を満たすためだとの 考え方は原始仏教にも登場してくるのだ。
 これで、愛を食欲と同じ土俵にのせることができた。あとは、愛の欲求はどのような性質を持っており、どのような条件下で発生し、経済や社会とどうかかわるかを知ればいい。
 本文で詳しく述べるように、愛は人間社会を形づくるうえできわめて重要な役割を演じていることがわ かってくる。本書を通して、読者に「人間社会が見えてきた」と感じてもらえれば、本書の目的は達せら れたと思っている。

< 目次 >
1.愛もまた利己心である
 愛がもてはやされる時代
 愛は本当にむずかしいのか
 誰のために愛しているのか
 なぜ愛の大切さが説かれるのか
 社会評価が愛の行動の動機になる
 愛と恋は違うもの
 愛の限界の決まり方

2.愛は多様な人間行動を生む
 愛はどのようなとき生まれるか
 広い愛と狭い愛を狭めるもの
 家族内けんかの構造
 愛が人を動かす理由
 協力のメカニズム
 自慢話を聞きたい
 人は愛を拒否することがある

3.愛の認識が世界を変えた
 マルクスは愛の認識を間違えた
 ユートピアの世界
 市場経済は愛の範囲を超えて
 愛は市場を補完する

4.集団のなかで愛が機能する
 集団に所属するのには理由がある
 集団の壊れやすさを決めるもの
 選択肢のない利益共同体と選択肢のある利益共同体
 集団の殻が破れると
 ロイヤリティが生まれる条件
 賭がともなうとファン意識は生じにくい
 個人スポーツと団体スポーツ

5.愛は市場を広げた
 愛の市場は広い
 いろいろな愛の商品
 制度はこうして愛を広げる
 情報化はさらに情報ニーズを高める

6.愛が社会システムの姿を決める
 私的愛と制度化された愛
 社会システムとしての愛の制度化
 ボランティアとしての愛の制度化
 国によって異なる愛の救済システム
 資本蓄積に愛が関係するか

7.未来社会を愛からみると
 変化する愛の範囲
 家族の機能は変化する
 情報化が進んだあとの「愛の形」
 存在場所が多様化する
 愛の分散化

8.これからの社会システム
 「愛はすばらしい」は愛の行動をうながした
 社会の価値観とシステム
 私的愛と住み分け
 環境変化にあった社会システムを


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